漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

→これまでのお話はこちら


今回のテーマは「若気の至り」である。

私も四十路に王手がかかり、樹木界などではまだ若手の部類だとは思うが、人間の中ではもはや若いとは言えない。

しかし「人生で今日が一番若い日」とも言い、それは事実である。

つまり今この瞬間も我々は至り続けているということだ。

ツイッターのつぶやきですら過去10日分を読み返すと「何言ってんだコイツ」と正気を疑うつぶやきが、1つ2つ存在するものである。まして「mixi」と聞いて顔が真っ赤にならないインターネット中年などほとんどいない。

しかし「若気の至り」という言葉は至った側が使ってはいけないような気がする。

「まあまあ子どものしたことですから」と言って良いのは「尻にチャッカマン」というような子どもの知的好奇心を満たされた側であり、満たした側、まして満たした側の親に言われたらその時点で「示談」という解決策は消える。

誰だって自分にNTRビデオレターを送ってきたチャラ男君がスーツ姿で子どもを抱きながら「あれは若気の至りでしたね(笑)」と言っていたら、モブおじさんに闇堕ち不可避だろう。

誰かにしてしまった過ちをチャラにできるのはされた側だけであり、した側が「若かったから仕方がない」で済ませようとしてはいけない。

つまり「若気の至り」はあくまで「クソデカヘッドフォンに赤ブチめがね羽根つきリュック椎名林檎」のような「自損事故」のみに使った方が良い。

ちなみに椎名林檎は何も悪くない。ただ我々世代が事故る時、カーステレオから流れていたのが偶然椎名林檎だった、と云ふだけである。

ところで高校の合唱大会でCoccoの「Raining」を推そうとしたあの子は元気だろうか。だが、もし再会したとしてもその点には触れないでおこうと思う。

自分の黒歴史に触れられたくなければ相手にも触れないというのが鉄則だ。さもなければ、卒業文集の前で悶死している変死体が2つ見つかるだけである。

しかし、自損事故、つまり他人に一切迷惑をかけていないなら別に「至り」などと言わなくても良いような気もする。むしろこちらが恥じるから黒歴史ジェムが黒くなるのであって、逆に堂々としていれば、あの日得意げに首に下げていたシルバーアクセサリーのようにジェムは輝くのである。ちなみにまどマギは見たことがない。

また、時代が変わることによって過去が黒ずんでしまい、後悔するということもある。

私は4歳のころか一貫して平面から出てこない男と下ネタが好きだが、私が変わらないのに対し世の中は大きく変わった。

下ネタの扱いも「悪いがデカいイチモツの話を聞きたい奴以外は出て行ってくれないか!」と、その場に下ネタが苦手な人がいないか確認してから言うのがマナーになり、最近では「デカいイチモツの話をしたい俺たちの方が出ていく」が正しくなりつつある。

だがそれもここ十数年の動きであり、昔はもっと平気で巨大なモノの話をしていたし、むしろそういう話に眉をひそめる側の方がカマトトぶっていると批判されることまであった。

カマトトとは何か、と思ったかもしれないが、我々大人が全て意味を理解した上で言葉を使っているとは思わないでほしい。

そして当時は「男のエグイ下ネタについて行ける私」をアイデンティティにしている女というのは結構いて、自分もまさにそれであった。

よって、公の場で何の断りもなくそういう話をしていただろうし、下ネタに苦手な人にマウントを取ったり「お前らもこっちこいよ」と、口笛をスースー言わせていたような気もする。

つまり「ちょっとオタクくんノリ悪いよ」と言ってくるクラスの盛り上げ役、という未だに和解が成立していない相手と同じようなことをやっていたということだ。

このような行いは当時としてもグレーだったと思うが、当時の価値観では白だったことが今ではガースー黒光り歴史ということもある。

何せ当時は白だったため「これは将来黒光るぞ」などとわかりようがないので、気をつけようがないのである。

このように、黒か白かは時代によって変化し、その時白と言われているものを白と信じてやったら、見事黒くなるということもある。

よって人の過去の過ちを一方的に今の価値観で断罪するのではなく「時代」という情状酌量を頂けたら幸いである。

ただ共通して言えることは、至りも黒歴史も、その瞬間は「至っている」ということに気づけないのだ

この文章も10年後には「デカいイチモツってお前は一体何を言っているんだ」になるとは思うが、もちろん今は気づけず、そのままネットに載せてしまうのである。