今回のテーマは「ウィンタースポーツ」である。
無縁。その一言だ、ウィンタースポーツさんとは一度も関わることなく死んでいくだろう。
私はセンスがない。何の? と聞かれたら「全部」だ。体育は常に3だったし、成績もずば抜けて悪かったわけではない、平均的凡才だ。
しかし、センスが北京原人なのである。
こう書くと北京原人の方から誤解を与える表現だとクレームメールが届くかもしれないが、例えと思ってご容赦いただきたい。
例えば、「この石を投げろ」と言われたら、普通に雄たけびを上げながら投げられるが、「顎を引き、肘を耳の後ろに引く感じで投げろ」と言われたら「ウホ??」となるし、「今から石を投げるのでこの棒で打ち返せ」と言われたら「何をおっしゃってるんですか?」と敬語で返してしまう。
つまり、ただの凡才が、テクニカルなことを要求されたり、道具を使えと言われたりすると一気に「無才の帝王」と化すのである。
よって、音楽、技術、家庭科がダメなのはもちろんのこと、恐ろしいことに漫画家をやっているのに美術も実はダメだった、ただ好きなだけである。
それも絵の具をはみ出さずに塗ることができない、とかいうレベルではなく「パレットに絵の具を適量出すことがまず無理」だし「それが他の色と混じり合わないようにするのも無理」だ、気付いたらパレット上に自然界で見たことのない色が作り出されている。
もし今も漫画がペン先にインクをつけて描く仕様だったら、私は確実に漫画家になれなかった、ということだ、
なれたとしても、全身にペンキを塗って床を転げまわるタイプの自称前衛芸術家ぐらいだと思う。
ウィンタースポーツというのは、スポーツの中でも、運動神経に加えそういったセンスが必要な気がしてならないのだ。
例えば、ウィンタースポーツの代表格であるスキーやスノーボードというのは「板を使って雪の上を上手く滑れ」と言っているのだ。
こんなのどう考えても、腕力がある、足が速い、石を遠くに投げられるとかで解決できる問題ではない、明らかに技術、センスが必要な行為である。
そもそもスキーやスノボというのは「初回はコケにいくようなもの」と言われている。
ここでもセンスがある奴は、初回で滑れたりするのだろう。逆に言えば、センスがない奴は「永遠にコケる」ということである、スノボの技術より、コケの芸術点のほうが上がるような気がしてならない、そっちのセンスならある気がする。
一度、ローラースケート場に行ったことがあるが、私はそこでも滑るどころか「立つ」ことすらできず、ずっと生まれたての小鹿のように佇んでいた。
この時点で、私には漫画や会話以外で「滑る」という行為の才能がないことに気付いた、むしろ前者に才能を持っていかれすぎて、床とか雪を滑るところまで残らなかったのかもしれない、
だから、スキーやスノボはやったことすらないが、おそらくできない。
そして、私の好きな映画が『八甲田山』ということも影響していると思う。八甲田山とは実際にあった遭難事件をモデルにした映画であり、陸軍が冬の八甲田山に軍事訓練に行き、遭難し200人以上が亡くなった、というストーリーだ。
私はこの映画を冗談じゃなく500回ぐらい見ている。八甲田山を500回見ると、大体の人が「雪山にだけは行くまい」と思うだろう。
ちなみに、次に好きな映画は『ディープブルー』である、こちらはサメさんが鼻持ちならない奴を食ってくれるというグルメ映画なのだが、これも「海には近付くまい」と思わせてくれる。
山も海も楽しい場所なのだとは思うが、そこには当然リスクがある。
その点「自分の部屋」というのは、楽しい上に肉体的にも精神的にもダメージを負うリスクがどの場所よりも低いのだ、だったらわざわざ危険な冬山にコケに行く必要など全くないだろう。
そこに山があるから登るのかもしれないが、登ったから死んだ、という事態も十分起こり得るし、事件は会議室で起こってるんじゃなくて、部屋から出たから現場で起こってしまったのだ。
やってみなければわからないと思われるかもしれないが、「挑戦」とは結果によっては「いらんこと」になるのだ。
私にとってウィンタースポーツというのはどう考えても「いらんこと」であり、私にとってだけではなく家族などにとっても「いらんこと」になる可能性がある。
明らかに向いてないことに挑戦するより、部屋で一点を見つめるなど、向いていることに時間をかけたほうが良い場合もあるのだ。