
チゼータ・モロダーV16T。それは、設計もデザインも、そして開発資金までもが、スーパースターたちの情熱によって誕生した唯一無二のスーパーカーだ。この白い車両は超希少なその血統の原点にあたる、記念すべき第一号車である。
【画像】ガンディーニもプロジェクトに参加した、スーパースターたちが手がけたスーパーカー(写真6点)
1988年12月5日。ビバリーヒルズ。振り返ってみれば歴史というものはいつも、いかにも似つかわしい舞台において静かに、けれども確実に動きはじめるものだ。今でいうハイパーカーの時代が幕を開けようとしていた。
多気筒こそ正義
アベニュー・オブ・ザ・スターズ沿いのセンチュリー・プラザ・ホテル。壇上でかのジェイ・レノが掲げたのは、「シリンダーの数こそが重要だ」という、いかにもあの時代らしく景気のいいフレーズだった。
あの日そこに現れたのは単なる新型モデルではなかった。新しいブランドの第一声であり、ひとりの男の執念ともうひとりの男の美意識が結託して生んだ、途方もない技術的挑戦をはらむ、まったく新しいスーパーカーだった。ランボルギーニを知り尽くした男が夢を描き、世界的な音楽家がそれに資金を投じる。そうして生まれたのが唯一無二の「チゼータ・モロダーV16T(シャシー番号001)」である。
唯一無二。この車には実にぴったりな表現だ。まず名前の由来を見ておこう。創業者クラウディオ・ザンポーリのイニシャル、C.Z.をイタリア語で読んで「チゼータ」である。さらに末尾のV16Tも尋常ではない。V型16気筒エンジンをリアミッドに横置き(Transverselyの「T」)したことを意味する。そして、この大胆な技術的挑戦に「モロダー」と名を連ねたのが、1970年代後半から1980年代初頭にかけてエレクトロニック・ディスコ・ミュージックの時代を牽引した作曲家、ジョルジオ・モロダーだった。
1939年にモデナで生まれたザンポーリは、エンジニアリングと車に対する情熱を全身に宿したような男だった。修業を積んだのち1970年代初頭にランボルギーニへ入社。以後8年にわたってボブ・ウォレスのもとでエスパーダやミウラSV、ウラッコ、そしてカウンタックのテストドライバーを務め上げた。
やがてアメリカへと渡ると、サービス部門のトレーニングに携わる一方で、ロサンゼルスに自らの店「エキゾチック・スポーツカー・ディーラーシップ&リペアショップ」をオープンする。たちまちイタリア製スポーツカー好きたちの聖地となり、多くのスターたちが出入りした。サミー・ヘイガーがヴァン・ヘイレンに加わるきっかけがどこに転がっていたか知っているか?―そんな逸話の宿る店に通っていたもうひとりの重要人物こそジョルジオ・モロダーであった。
モロダーは1940年、イタリアのチロル地方オルティゼイに生まれた。若くして才気を放ち、短い歌手活動を経たのちにプロデューサー、ソングライターとして時代の脈を握ることになる。1972年に渡米。ドナ・サマーとのコラボレーションが飛躍の一歩となった。『Love to Love YouBaby』でディスコの扉を押し開け、『I Feel Love』で電子音楽の未来を先取りする。さらに1979年の映画『ミッドナイト・エクスプレス』でオスカーを初受賞、続く1984年の『フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング』、1987年の『愛は吐息のように(Take My Breath Away)』で、映画音楽の世界で頂点を極めたのだった。
その後の受賞歴はもはや説明不要だろう。4つのゴールデングローブ賞、4つのグラミー賞、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞、そして2005年にはイタリア共和国大統領からはコンメンダトーレも授与された。映画『アメリカン・ジゴロ』や『スカーフェイス』、さらにはビデオゲーム『グランド・セフト・オート』やオリンピック公式ソングまでを手がけたその男の耳に、あるとき噂が届く。フェラーリやランボルギーニに長年関わってきたザンポーリが、「自分ならもっといいスーパーカーを作れる」と豪語している、と。
V16というアイコン
かくして、いかにもユニークな共同プロジェクトを担う役者が顔を揃えた。目指したのは、これまでにないほど特別なスーパーカーを造る、まったく新しい自動車会社だった。そしてザンポーリは、その車を”ただ速いだけではなく、信頼できて整備しやすいマシン”にすると約束した。
モロダーからの援助に加えて、自身のクラシックカー・コレクションも売って得た資金を元手に、ザンポーリは理想の布陣を整えていく。そこにマルチェロ・ガンディーニの名が加わるのだから、話は一気に盛り上がる。ミウラやカウンタックを描いた天才は当時ベルトーネで「プロジェクトP132」、のちのディアブロを巡って、新たに親会社となったクライスラー側からデザインの変更を求められ、不本意な時間を過ごしていた。ザンポーリとの”再会”は、彼にとってもまた絶妙なタイミングだった。
ガンディーニ自身は後年、「もしP132がクライスラーの手で妙にいじられていなければ、あのチゼータのシェイプこそディアブロになっていたはずだ」と語っている。たしかにチゼータにはシザーズドアこそない。だが、約1年後に登場するディアブロよりもさらにワイドでかつ、血のつながりを疑えないほどに両車はよく似ている。骨格を支えるのは、ランボルギーニと同じくモデナのマルケージ社が手がけたチューブラーフレーム。サスペンションもダブルウィッシュボーン式だ。
そしてリアミッドの心臓部である。ここに宿ったエンジンこそ、モダンスポーツカー史において初めて積まれたV16であり、チゼータという企てをエンジニアリングの芸術へと昇華させた原動力であった。設計を担ったのはテクノスタイルのオリヴィエロ・ペドラッツィ。彼は1960年代半ばのランボルギーニにおいてジョット・ビッザリーニのもとで学び、350GTから始まるかのV12エンジンシリーズの改良と開発を通じて経験を積んできた本物のアルチザンである。
V16のスペックは確かに尋常ではなかった。6リッター、64バルブ、90度バンク、4つのシリンダーヘッド、8本のカムシャフト。なかでも、エンジン中央に配されてギアボックスへつながるパワーテイクオフの設計はこの機構の核心だった。8000rpmまで回り、560psを叩き出す。その力はチゼータを時速200マイル(約322km/h)の彼方へ連れ去るに足るものだった。当時の路上で”最速市販モデル”を名乗るに十分な数字である。このエンジンはホイールベースを延長したフェラーリ308のテストミュールで鍛えられたのち、この白い001へと積み直されたのだった。
V16の見た目の印象としては、ランボルギーニ・ウラッコP300用のV8を2基並べ、さらにフェラーリ308用の燃料噴射を2セット抱かせただけ…、のようにも思える。だが実際にはすべてが白紙から起こされた専用設計品ばかり。16気筒のブロックも完全なオリジナル鋳造品だった。
現場でのサービス経験も豊富だったザンポーリは、それゆえライバルの弱点もよく知っていた。だからランチアの量産モデルに使われていた強力かつ信頼性の高いエアコンをチゼータに与え、サイドウィンドウは(ランボルギーニとは違って)全開にできるようにし、メンテナンスのしやすさにも十分注意を払っていた。その思想は実に好ましい。けれども、そこまで作り込もうとすれば当然、時間も金も底なしに消えていく。開発は遅れに遅れ、投入資金は膨らみ続け、ついにモロダーは期限を切った。それが、1988年ビバリーヒルズの発表会だった。
・・・後編へ続く
編集翻訳:西川淳 Transcreation:Jun NISHIKAWA
Words: Massimo Delbo Images: Courtesy of the Petersen Automotive Museum Photography: Ivan Illagan / MITOKINO