
あのテントの主
リシャール・ミルとの共作RMB01を披露したブラフ・シューペリアの台座には、現行のS.S.100も置かれていた。その前輪を支えるのはテレスコピックではなく、2本の三角リンクを持つフィオール式のフォークである。7月のル・マン・クラシック・レジェンドの記事で、早世したフランスの天才クロード・フィオールのマシンを2台紹介したばかりだったから、思わぬ再会に足が止まった。
【画像】ホンダ、カワサキ、アプリリア、BMW・・・往年の二輪名マシンがシャンティイ城に並ぶ(写真16点)
再会はそれだけではなかった。城の庭を奥へ進むと、芝の上にレーサーばかりが並ぶ一角がある。1955年のノートン・マンクスから、2019年のMotoGPマシンまで。説明パネルの隅には赤と黄色の楕円のロゴがあり、「アミカル・スピリット・オブ・スピード」と読める。見覚えがあった。サルトのヴィレッジでテントいっぱいに二輪を並べていた、あの展示の幕にあったロゴだ。
居合わせた会長のベルナール・ジラルド=メグリエイナ氏にその記事を見せると、大喜びしてくれた。話はそこから始まった。
走らせて残す人々
アミカル・スピリット・オブ・スピードは、ロードレーサーの収集家たちの会である。亡くなった友人を偲んでルクセンブルクのショーに集まった仲間が、歴史的レーサーの持ち主どうしをつなごうと思い立ち、2009年春に5人で立ち上げた。ジラルド=メグリエイナ氏はその創設メンバーのひとりだ。本拠はフランス東部のブザンソン。国籍もメーカーも時代も排気量も問わず、できるだけ幅広くレーサーを残し、展示やサーキットで人々に見せることを目的に掲げる。会員の所蔵を合わせれば約5000台にのぼるという。
彼らが作り上げたレーサーの分類法は、やがてFIMの目にとまった。いまではFIMのヘリテージ・プログラムとして、世界中の収集家に開かれた認証制度になっている。パネルのロゴに添えられた標語は「History on Track」。飾るのではなく、走らせて残す。それが彼らの流儀である。
四輪の世界との縁は、2023年のエストリル・クラシックで生まれた。そこでピーター・オートのチームと出会い、2025年のル・マン・クラシックに初めてレーシングバイクの展示を招かれる。今年7月のサルトのテントが2度目で、同じピーター・オートが主催するこのシャンティイが、その次の一歩というわけだ。
目を覚ますホンダ、黙っているアプリリア
会場では、時刻を決めてエンジン始動のデモンストレーションが行われていた。けれども会長が自分のホンダに歩み寄ったのは、予定の時刻ではない。僕のために、火を入れてくれるというのだ。
世界耐久選手権を戦ったCBR1000RR、ゼッケン111。2019年のル・マン24時間では、839周を走って首位とわずか1分差の2位に入ったチームのマシンである。ところがその秋、開幕の3週間前になってホンダは突然の撤退を発表する。ボルドールへ発つばかりに仕上がっていた2台のうちの1台が、装備も書類もそのままに会長のもとへやって来た。
スイッチが入り、メーターに灯がともる。緑のNの字が光り、並列4気筒があっけなく目を覚ました。その音が庭に響いたとたん、どこからともなく人が集まってくる。人垣ができるまで、ほんの一瞬だった。耐久レースは、ライダーがコースを横切って駆け寄り、自分でエンジンをかけて飛び出していくル・マン式で始まる。セルひとつで目を覚ますことは、市販車から生まれたこのマシンの条件なのである。
隣のアプリリアRS-GPは、そうはいかない。モデナから来たオーナーのエンリコ・カステッラーリ氏が、車体の左に出ているパイプを指して教えてくれた。ここからコンプレッサーで空気を送ってやらないと、エンジンはかけられない。バルブを閉じるのがばねではなく、圧縮した気体だからだ。「F1と同じシステムだよ」。工場から直接譲り受けたというこの元イアンノーネ車を、彼は2023年のグッドウッドで自ら走らせている。公式のエントリーリストにはアプリリア・レーシングの名義で、その年の最新型と並んで載っていた。
同じ芝の上の、同じレーサー。けれども片方は呼べばすぐに応え、片方はひとりでは目を覚ますことさえできない。誰もが買えた道具と、工場の奥でしか生きられない機械。そのあいだに横たわる距離を、これほどはっきり見せられたのだった。
挑む側の歴史
パネルを1枚ずつ読んで歩くと、この会の選び方が見えてくる。並んでいるのは勝者ばかりではない。
船外機のエンジンでMVアグスタに挑み、1973年の選手権2位を死後に贈られたキム・ニューカムのケーニッヒ。ピストンとブレーキ以外はすべてヨーロッパ製という成り立ちで、日本のワークスが支配する500ccに挑んだエルフ500 ROC。モデナ近郊の小さな工房が作り、一度もレースを走らなかった世界に1台のL.G.M 350-4。車重57kg、自転車のようなタイヤで190km/hに達したフランスのスクラブ50。義理の兄弟をメカニックに、家族だけのチームで1993年の世界王者になったディルク・ラウディースのホンダRS125R。SERTがル・マン24時間を初めて制した1982年のスズキGS1000R。そして独立前のアルジェリアで地元のライダーとともに走った、1955年のノートン・マンクス。
大きな名前の陰で、自分の手と知恵で頂点に挑んだ人々がいた。その機械を残すことは、彼らの名を残すことでもある。
日本の読者には、もうひとつ気づくことがあるはずだ。ラウディースと表彰台を分け合い続けた坂田和人と辻村猛。SERTのカウルに貼られたヨシムラの赤いロゴ。ホンダ、スズキ、ヤマハの文字。ヨーロッパの収集家たちが大切に守っている歴史の、かなりの部分は日本製なのである。
膝をついて乗る
「あれ? バイクが1台倒れてるよ!」
そんな声に振り向くと、レーサーが並ぶ列のほぼ中央に、芝に貼りつくように低い白と赤の車体があった。背の高いマシンに挟まれているから、余計に1台だけ倒れているように見える。だが倒れているのではない。BMWの水平対向2気筒、レンシュポルトを積んだ1973年のサイドカーである。ベルギーのヴァネスト兄弟が自分たちで設計して作り、兄弟で乗り、この年の世界選手権と初出場のマン島TTで、ともに4位に入っている。
サイドカーのことを何も知らないと白状すると、オーナーは笑って「こうやって乗るんだ」と車体に膝をついてみせた。シートはない。伏せた姿勢のままハンドルを握り、操作はふつうのバイクと変わらないという。シフトペダルは右側にあった。
1954年から20年のあいだに、このエンジンは19の世界タイトルを獲った。ソロでは直進安定性に泣かされたのに、3つ目の車輪を得たとたんに無敵になったのだから面白い。その王朝に終わりを告げたのが、先ほどのケーニッヒと同じ船外機の2ストロークだった。芝の上の車両は、互いに物語でつながっている。
もっと知ってほしい
四輪に比べると、二輪のレーサーは知られていない。会長はそう言った。だからもっと知ってほしい。そのために、世界中の収集家と輪を広げていきたいのだ、と。
考えてみれば、サルトでもシャンティイでも、彼らは四輪の祭典の片隅に場所を得て、車を見に来た人の足を止めていた。知らない人の前に機械を置き、聞かれれば乗り方まで見せ、決まった時刻にはエンジンをかけて音を聞かせる。パネルを読まない人でも、あの音には振り向く。レーサーを知ってもらうのに、これ以上の方法はないのかもしれない。7月に名も知らずに撮ったテントの主は、2か月後、僕に1台ずつの物語を教えてくれる人々になっていた。
ホンダのエンジンが止まると、人垣はほどけ、城の庭に静けさが戻った。スクラブの小さなシートには、会長のパナマ帽が置かれたままになっている。コンクールの審査員たちが見ているのは、向こうの芝に並ぶ優美な四輪だ。こちらの芝にいるのは、速く走ることだけを考えて作られ、役目を終えれば忘れられていったはずの機械たち。それを忘れなかった人々が、今日もどこかのサーキットで、古いレーサーに火を入れている。
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI