
歴史的名車の実車を前に、その車に関わった人の話を直接聞くことができるオクタン読者限定の非公開イベント「Octane 名車研究」。これまでポルシェ911カレラRS、トヨタ2000GT、フェラーリ・エンツォフェラーリ、マクラーレンF1&GMA T.50という錚々たる名車に登場いただいた。今回のテーマは誕生60周年を迎えた「ランボルギーニ・ミウラ」だ。
【画像】ミウラに40年以上乗り続けるTさんが所有する1971年ランボルギーニ・ミウラP400S(写真9点)
「その予算じゃ、ミウラぐらいしか買えねぇよ」
そのひと言が”日本一ミウラを知る男”の40年以上にわたる物語の始まりだった。
名車研究にミウラを取り上げることもまた、当初から計画に入っていた。折しも今年2026年はミウラの生誕60周年の年だ。私が京都・北野天満宮で毎年催しているSCHG(スポーツカー&スーパーカー・ヘリテージ・ギャザリング&パレード)もミウラの60年をメインテーマとすることを早くから決めていた。そこで編集部からの提案もあって「名車研究ミウラ編」をSCHGのメインコンテンツとして併催することになった。
問題は人選と車選だったが、すでに心当たりがあった。10年前、SCHGではなく「ランボルギーニ・ヘリテージ・ギャザリング」としてこのイベントがスタートした時からほぼ毎回参加してくれている白いミウラとオーナーTさんが適任だと思った。何しろ彼はミウラに乗り続けて40年以上という大ベテランなのだから…
ミウラはポンコツ扱いだった?
実のところ Tさんはどうしてもランボルギーニ・ミウラを買いたいと思っていたわけではなかった。職場から払い下げられたダットサントラックに、フォード351クリーブランドV8を積み、ボディも大幅にモディファイして本格的なカスタムトラックに仕立て上げる ──カスタムが好きだったTさんはそんな野望を抱いていたのだ。
ところが資金が足りなくなった。なんとか追加で工面した資金を手にして、ふと思いつく。「これだけあれば、デ・トマソ・パンテーラくらい買えるんじゃないか」と。クリーブランドV8をリアミドに積んだこのイタリア製スーパーカーは、当時の車好きにとって夢の選択肢のひとつだった。知人のディーラーやブローカーに問い合わせた結果、返ってきたのが冒頭の言葉である。
「耳を疑いましたよ」、とTさんは振り返る。子供の頃からミウラは憧れの存在だったからだ。「この世にこんなにもカッコイイ車があったんや」と小学生T君の心を鷲掴みにしたあの官能的なシルエット。しかしそれは夢のまた夢のような存在であって、現実に自分が買う車であるなどとは考えてもいなかった。
それが、「少し頑張れば手に入るかもしれない」という話に変わった瞬間、Tさんの人生の歯車は決定的に動き始めた。
ミウラに関する情報を集め始めた。面白いことに反応は異口同音、「やめた方がいい」という否定的な返事ばかりだった。ショップもブローカーも、自動車マニアの先輩諸氏も、口を揃えてミウラを否定する。なかでも手厳しかったのがフェラーリ愛好家からの評価だ。
曰く、「信号待ちのたびにプラグ交換が必要なポンコツ」…
ある意味、それは仕方のない話だった。それが80年代当時の市場に出回っていたミウラの実態だったからだ。バックヤードの通路にウマをかけられ、タイヤもホイールもなく、雨ざらしで放置された個体もあった。グラスファイバーでボディ修理が施され、露天で展示されている個体もあった。ほとんど廃車寸前の扱いだ。あれほどの美しさを持つ車が、なぜこうも粗末に遇されているのだろう?
Tさんは不思議でならなかった。だから周りの否定的な大合唱にはまるで耳を貸さなかった。周りからの言葉では決して打ち消せないほどの魅力を、ミウラという存在に感じていたからだ。結果的にTさんの嗅覚は正しかった。秀でた車というものは、絵画の名匠と同様に、しばしばその時代において正当に評価されないもの。ミウラもまた、その典型例だった。
構造を学び、マイスターへの道へ
やがて運命の一台に出会う。1969年1月に製造されたミウラSの初期型だった。車検も継続中で、個人オーナーが現役で使用していた個体である。オレンジレッドにタンのインテリア──子供の頃に思い描いた憧れのミウラそのままの姿だった。少し無理をしてTさんはそのミウラを手に入れた。
「例に漏れず、ポンコツではありました」とTさんは笑う。しかし走ることはできた。だから毎晩のように走らせた。蒸気機関車さながらに白煙を撒き散らし、室内は焼けたオイルとガソリンの香りで充満した。セルモーターのギアがフライホイールに噛み込んで押しがけでエンジンをかけたこともあった。燃料タンクにはピンホール状の穴が無数に開いており、オイル上がりで2番・3番のプラグがカブる。「信号待ちのたびにプラグ交換」、というのは、まんざら誇張でもなかったのだ。
それでもTさんは走り続けたが、あるとき冷静になって車体の状態を見極めようとした。燃料タンクを含む前方フレームと下回りの板金修理に着手する。作業してみると、車両前方のほぼ半分が錆で朽ち果てており、ブレーキを支えるサブフレームまで危険な状態にあることが判明した。こうした問題をひとつひとつ自ら解決する。そのプロセスでミウラの構造を学んだTさんはマイスターへの道のりを歩み始めたのだった。
修理後、大阪の有名ショップに整備を依頼すると今度はタイミングチェーンの張りすぎでベアリングが破損しバルブを突いた。ヘッドを降ろす大修理に。転機はヘッド修理後もいまひとつ調子の出ないエンジンを、当時某工場から独立したばかりのとある職人に調整してもらったときに訪れた。「初めてランボルギーニ・ミウラの本質を体感した」とTさんは振り返る。羽のように軽く、矢のような加速をみせる。宙を浮くような感覚さえあった。それはかつて信号待ちのプラグ交換と白煙に象徴されていたポンコツのイメージとは、まったくかけ離れていた。
1986年、ついにエンジンのフルオーバーホールを敢行した。慣らし運転を早く終わらせたくて毎晩のように走らせた。2時間のドライブで体重が2キロ落ちる。それがスポーツカー、ミウラだった。 1989年ごろになるとTさんの人脈はイタリア、フランス、アメリカへと広がり、アリゾナ州フェニックスのクラシックランボ&フェラーリパーツ専門ショップとの長い付き合いも始まった。そのショップのオーナーに「お隣さんですよ」と紹介されたのが、ボブ・ウォレス氏だった。
かのボブ・ウォレスが手がけたエンジン
ボブ・ウォレスとは何者か。ランボファンには説明不要だろう。ニュージーランド出身のテストドライバー兼エンジニアで、ミウラをはじめイオタやウラッコの開発に深く関わった人物である。そのウォレス氏が引退後、アリゾナで整備工場を営んでいたのだ。Tさんはすぐにショップを訪ね、ミウラに関する数々の興味深い話を聞いた。
ショップを訪ねるたび、Tさんは目を見張った。英国オーナーから送られたイオタクローン用フレーム図面、イオタエンジンを再現しつつ現代の精度と軽量化技術を取り入れた4リッター420.440馬力のユニット、強化LSDのトルクに耐えるためアルミ鋳造からモリブデン鋼に換装されたデフ構成部品、などなど。ウォレス氏のショップは古き良き時代の記憶が凝縮された場所だった。ウォレス氏はTさんのオーダーで、現在所有する白いミウラ用のほか、2基のミウラエンジンと1基のディーノエンジンも製作している。「最初のミウラがポンコツだったおかげで、高い月謝も払ったけれど、同時に車とその整備の知識も得られたし、何よりミウラの進化に深く携わった中心人物の一人とも知り合えた。ラッキーでしたね」というTさんの言葉は、謙虚でありながら本質を突いている。困難は時に、最良の師となるものだ。
ゆえあって1990年の秋、Tさんは白いミウラに乗り換えた。ボブが丹精込めてエンジンを仕上げた一台であり、Tさん自身の長年の経験から生まれた独自の改良も施されている。ウィークポイントを潰すべく、分離オイルサンプ、フラップ式ディープオイルパン、プライマリーギア用オイル供給システム、そしてカウンタック 5000S用のデスビを流用し8200回転でカットオフする設定など、だ。
ミウラのV12には本来競技用に開発されたウェーバー製ダウンドラフト3バレルキャブが装備されている。ロードカー用としてはいささか厄介な装備である。特に問題となるのがパーコレーション、すなわちキャブ内のガソリンが熱で沸騰し吹き出す現象だ。シリンダーヘッド上のカムの谷間にキャブが直接配置される構造では、エンジンの熱をもろに受けてしまう。渋滞や停車が続くとやかんを炙るような状態になるのだ。Tさん自身も過去に経験した。エアフィルター内で引火、くすぶった状況になり、咄嗟にアクセルを全開にして火元ごと吸引、エンジンを即座に切った。自走で帰宅後に確認すると、インナーベンチュリーがロウソクのように溶け、エアクリーナーが一部焦げたボヤ程度で済んだという。
この経験から生まれたのが、燃料ポンプ用の独立スイッチだ。渋滞でパーコレーションの兆しを感じたらポンプをオフにして油面を下げる。そしてエンジンを切る際にも少し前にオフにし、キャブ内のガソリンが余熱で膨張して燃焼室へ流れ込むことを防ぐ。この習慣をTさんは欠かさない。ちなみにミウラの名誉のために言っておくと、パーコレーションは気温15度以下、および走行中には発生しないものだ。
40年以上、2台のミウラとともに生きてきた男の話を聞きながら車とオーナーの関係性について考えた。ミウラは決して「乗りやすい」車ではない。手がかかり、金がかかり、体力も使う。しかしTさんにとってそれは苦難ではなく、振り返れば愉快な”対話”の連続だった。
ボブ・ウォレスをはじめ、多くのプロフェッショナルや車好きとの出会いもすべてはその対話によって生まれた物語の一部だ。そしてその対話は今も、名車研究のその日も、続いている。
本物のクラシックカーライフがそこにあった。
文:西川 淳 写真:タナカヒデヒロ
Words: Jun NISHIKAWA Photography: Hidehiro TANAKA