
アルファロメオ・ジュリア、イソ・グリフォ、ロータス・エスプリ、そしてフィアット・パンダという自動車史に残る傑作を通して、芸術としての自動車を巡る旅にスティーブン・ベイリーが案内する。
【画像】ジウジアーロの傑作その1:アルファロメオ・ジュリア(写真5点)
オペラは死んだ。そしてずいぶん長いことそのままだ。フランシス・プーランクやプロコフィエフを例に引いてそんなことはないと反論する人もいるだろうが、私にとっては、ジャコモ・プッチーニ(トゥーランドットはプッチーニが亡くなった時には未完成だった。初演は1926年4月25日のミラノのスカラ座)以降、聴くに値するオペラは生まれていない。
自動車デザインも同様である。通りを走る数多の車を見よ、と言われても、私にとっては、ジョルジェット・ジウジアーロのイタルデザインがランボルギーニ・ホールディングス(言うまでもなくランボルギーニはVWグループのブランドである)に売却された2015年以降、真に美しい車は生み出されていない。
オペラと自動車はイタリア人のお家芸である。そのどちらにも驚くべき物語と美が内包されているが、今ではもう見つけられない。ずいぶん昔にセパレートシャシー構造が衰退したことで、その上にボディを架装していたコーチビルダーたちと共に活躍の場を失ってしまった。さらに近年では、自動車メーカー自身が内部に専門的技術を蓄積したことによって、優れたデザイン・コンサルタントさえも不必要とされてしまった。その例外がジウジアーロである。
ジウジアーロが1968年に創設したイタルデザインは、その47年後に売却されるまで傑出した独立系デザインスタジオであった。芸術的にも経済的にも、ベルトーネやピニンファリーナのような伝統的なカロッツェリア(今やかつての面影はない)に優っていた。歴史を振り返れば、ピニンファリーナはフェラーリやランチアのためにエレガントで古びないデザインを提供して名をあげ、いっぽうベルトーネは大胆で斬新な形で評判になった。1953年のBAT(ベルリーナ・アエロディナミカ・テクニカ)を見れば、たとえ空気力学とはあまり関係がなかったとしても、大胆で華麗なその表現に驚くばかりだ。対照的に、ピニンファリーナの1964年フェラーリ275GTBは伝統的なフロントエンジンV12クーペスタイルの最後の、そして最高の例と言えるだろう。それを凌ぐのは、おそらくその2年後にまったく異なる表現でデビューしたジウジアーロのマセラティ・ギブリだけだろう。
ジウジアーロは1938年生まれで、ルネッサンス時代からの歴史を持つトリノの美術学校、アカデミア・アルベルティーナで学んだ。1955年から1959年まではフィアットで、あのダンテ・ジアコーザの下で働き、トポリーノやヌオヴァ・チンクェチェント、フィアット128を生み出した巨匠の下で技術的な創意工夫と無駄のない美的感覚を学んだのである。この見習い期間の後、彼はベルトーネで頭角を現した。横柄なオーナーは彼の多方面での才能と穏やかな人柄に戸惑ったという。その後2年間をギアで過ごしたが、間もなくこれまた傲慢なアレハンドロ・デ・トマゾに買収されることになり、独立することを決意した。それがイタルデザインである。
1972年アルファ・ロメオGTジュニア
トリノは王国の首都だった。サヴォイア家は壮麗な王立騎馬隊を抱えており、そのための馬車が求められていた。偉大なコーチビルダーは、馬から内燃エンジンへ移行する時代もその要求に応えた。最初のイタリア車は貴族階級のいわば玩具だったのである。当時のコーチビルダーは皆格式高い名前を持っていた。ピニン・ファリーナやベルトーネのみならず、アレマーノ、バルボ、ボアーノ、カスターニャ、フィッソーレ、フルア、ミケロッティ、トゥリング、ヴィニャーレ、ザガート、まさに綺羅星のごとくである。それに対してイタルデザインという名称は英語風の造語であり、新しい現代的なビジネスを示唆していた。
もちろん、イタルデザイン以前にもジウジアーロはデザインという捉えどころのないビジネスに関する抜群の才能を見せていた。1963年にミラノ郊外にアルファ・ロメオのアレーゼ工場が開設されたのと同時に、ベルトーネによる105シリーズのジュリア・スプリントが発表された。従来モデルをベースにしながらも、このニューモデルは驚くほど新鮮だった。ボディ上部の大きなグラスハウスは当時としては異例だったが、うわべの装飾が必要ないほど全体が隙なくまとまっていた。引き締まって洗練され、安定感がある。4つのホイールは理想的な位置にあり、他の部分とのバランスも完璧だったが、105はこうやって言葉で表現する以上の不思議な美しさを備えていた。初期型の素晴らしいディテールのひとつが”スカリーノ”と呼ばれるボンネット先端の1cmのギャップである。冷却に効果があるともないとも言われたが、これは上品さに微妙な野性味を付け加える天才の芸術的な一筆と言えるだろう。まるで控えめなカクテルドレスに身を包んだ淑女が短剣を咥えているようなものである。
ジウジアーロのデザインの見事さを確かめたいのなら、トゥリングによる105コンバーティブル、GTCと比べてみるといい。そちらはジウジアーロの純粋さと巧妙な処理が失われている。さらにエルコーレ・スパーダによるGTZも奇妙としか言いようがない。オリジナルの105に対するどんな些細な変更や後付けも間違いだと分かるだろう。ロラン・バルトが語ったように、滑らかさは常に完璧であることの属性なのである。
ジウジアーロも一時所有していた105ジュリアは、わずか1.6リッターのエンジンながら見えない部分も美しかった。ディスクブレーキや5段ギアボックス、位置決めの正確なリアサスペンションなど当時先進的な技術を数多く採用、そしてツインカム4気筒は、限られた排気量を感じさせないほど活き活きとして楽しいエンジンだった。
オーナーの声:Jamie Wheatley(ジェイミー・ウィートリー)
インスタグラマーとしても知られるジェイミーは、バスク地方で開催されたクラシックカー・カンパニー主催のイベントにアルファで参加した2000マイルもの旅から戻ったばかりで、まだ興奮覚めやらぬ状態だった。サリーで不動産業を営む彼は17年前にこの車を手に入れたが、そのヒストリーは105シリーズの大半を象徴しているようだ。
「エセックスのオーナーから買ったんだ。ちょうどA3号線での事故に巻き込まれてアルファ・スパイダーを廃車にしたところで、そのうえ娘が生まれたばかりで4シーターが必要だったから、完璧じゃないかと思った。2リッターエンジンに交換されていたけれど、ボディとインテリアは1300GTジュニアのままだった」
「以前からツインヘッドライト仕様が好みだったので、2000GTVのグリルを取り付けたが、内側のライトにはメッシュグリルを装着した。シートも2000GTVのものを見つけて修理し、ボディもオリジナルのピーノ・ヴェルデではなくムスキオ・ベルデ(モスグリーン)に塗り直したんだよ」
ほとんど実用車として使っている間にサイドシルを2回、ホイールハウスと天井の内張を交換したというが、時にはル・マンやシェルズリー・ウォルシュ、シェア・ヒルクライムなどにも遠征するという割には悪くはない。ジェイミーは他にもシリーズⅢランドローバーやクラシック・レンジローバー(実際は父親のもの)、妻のデニーズの誕生日プレゼントだったモーリス・マイナー・コンバーティブル、さらに普段用のアルピーヌA110とBMW 520i(E28)も持っている。
もう一台、2リッターツインスパークを積んだ1967年アルファロメオ・ジュリアTiもある。先日亡くなったチャールズ・エヴァンスが、アルファ・スペシャリストのイアン・エリスから買った車である。チャールズはジェイミーとともに「サウスサイド・ハッスルカー・ミート」を立ち上げた人物だ。「チャールズは亡くなる時に、そのアルファを僕に残してくれたんだ。生きていれば彼がそうしたように、できるだけ思い切り使うようにしているんだ」
編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA
Words:Stephen Bayley Photography: Charlie Magee