113年の歴史を彩る最重要モデル|アストンマーティン・ザ・トップ20

アストンマーティンの歴史は第一次世界大戦以前にまで遡る。その長き歩みを彩る、最重要モデルたちをここに紹介しよう。

【画像】アストンマーティン歴史上、エポックメイキングな20台(写真20点)

コール・スカトル

1914年、第一次世界大戦勃発のわずか数カ月前に製作された、アストンマーティン(当時はバムフォード・アンド・マーティン社のブランド名)最初の 1台である。第一次世界大戦勃発間際とあって当然ながら開発は遅滞を余儀なくされたが、それでもライオネル・マーティンは1915年、ロンドンの拠点からウィルトシャーまでこの車を自ら運転し、「AM」のイニシャルを含むナンバープレートを取得した。ボディの粗削りな外観から「コール・スカトル(石炭入れ)」と名付けられたこの車は、1919年に戦後初の競技イベントであるロンドン.エジンバラ・トライアルに出場。1920年代前半にかけて、チームのレース車およびトライアル車として活躍した。1925年に50ポンドで売却されて以降、行方不明になっている。

グリーン・ピー

バムフォード・アンド・マーティン社は1922年、ブルックランズのレーサーであるルイ・ズボロウスキー伯爵の資金援助を受け、マン島TTへの出場を目的とした1.5リッター直列ツインカムエンジン搭載のレースカーを2台製作した。しかし開発の遅れにより、TT1とTT2はストラスブールで開催されたフランス GPでデビューを飾ることになった。その後、2シーズンを経て両車はリビルトされた後に、売却された。このうちTT1を購入したのはマリオン・モーガンで、彼女は「GP」という来歴にちなんで、「グリーン(G)・ピー(P)」というニックネームを付け、数多くのレースに出場した。当該車両、その後も途切れることなく保存、継承され、1950年代後半からは現在のオーナー一族が所有している。そして、今日もさまざまなイベントに参戦し続けている。

レイザーブレード

初期のアストンマーティンは、明確な目的を持って製作されていた。バムフォード・アンド・マーティン社は1913年に創業したものの、一般向けへの車両販売を開始したのは1923年だった。同社のチームが保有した最後のワークスカーはシャシーナンバー1915が与えられ同年、記録挑戦のためにすぐさま実戦投入された。「レイザーブレード(剃刀)」として知られるこの車には、航空機メーカーのデ・ハビランド・エアクラフトが、極限まで細く絞り込まれたシャシーに空力を追求したボディを架装した。当初はドライバーの肩部を覆うヒンジ式のカバーが備わっており、”オイスター・シェル(牡蠣の殻)”というニックネームで呼ばれていたが、後に取り外された。長年にわたる進化を経た現在、その姿は磨き上げられたアルミの地肌を誇らしげにまとっている。なお、レイザーブレードはBRDC(ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ)のバッジに刻み込まれた車だという伝説も残っている。

LM20

経営体制が刷新され、新たに設立されたアストンマーティン・モーターズ社は新世代のOHV 1.5リッターモデルの普及に力を注いだ。ワークスカーの第 1弾として、1928年のル・マンにLM1とLM2が満を持してデビューを飾った。13番を欠番とし、1935年まで毎年新たなワークスカーが製作され、最終的に LM21までナンバリングされた。LM22とLM23は 1936年シーズンに向けて製作されたものの、惜しくもチームとしてレースに出場することは叶わなかった。LM11とLM12はLM15とLM16として再構築されたケースもあるが、全車が何らかの形で現存していることは喜ばしい限りであり、いずれも輝かしい歴史を持つ。なかでもLM20はチャールズ・ブラッケンバリーとチャールズ・マーティンのペアにより1935年のル・マンで総合3位、クラス優勝という最高の成績を残した1台として、特筆すべき存在である。

アトム

アストンマーティンの歩みは、とりわけ1920~30年代にかけて経営体制の刷新、度重なるオーナーチェンジを繰り返してきた。1936 年、オーナー兼マネージング・ディレクターのゴードン・サザーランドはレース活動から距離を置き、高級スポーツカーの開発に専念する方針を打ち出した。新世代の2リッターモデルには複数のボディスタイルが用意され、4ドアのスポーツサルーンも選択肢に加えられた。既存シャシーの限界を見据えたチーフエンジニアのクロード・ヒルは、1939年にチューブラーフレーム構造と空力特性に優れたボディを採用した全く新しい設計を考案。しかし、コンセプトカーの発表準備を進めるには最悪のタイミングとなり、1940年の英国モーターショーも中止に追い込まれた。それでも「アトム」と名付けられたこのテスト車両は、戦時中も極秘裏に開発が続けられ、数千マイルもの走行テストを重ねた。アトムは後にデイヴィッド・ブラウンが試乗し、アストンマーティンの買収を決断するきっかけとなった歴史的な1台である。

DB2/4 マーク Ⅱ スパイダートゥーリング

ザガートボディをまとったDB4GTよりはるかに以前、フェルサム時代にはあまり知られていないコーチビルドモデルが存在した。イタリアのカロッツェリア、トゥーリングが手掛けたDB2/4マークⅡスパイダーは3台のみが製作され、そのうちの 1台は『Daily Mail』紙の読者懸賞の賞品になり、運転免許を持たない若者が見事して手にすることになった。DB2/4マークⅡスパイダーはトゥーリングが特許を持つ「スーパーレッジェーラ工法」、軽量チューブラーフレーム構造によって製作されており、そのデザインはデイヴィッド・ブラウン本人の目にも留まった。これをきっかけに、トゥーリングは DB4のデザインを任された。後にアストンマーティンにとって伝説となった「DB5」へと進化するDB4なくして、アストンマーティンの歴史はいかなるものになっていたか…。この 1台が生まれていなければ、私たちが知るアストンマーティンは存在しなかったかもしれない。

2リッター・スパ・レプリカ

1947年2月にヨークシャーの実業家、デイヴィッド・ブラウンがアストンマーティンを買収した。アトム・プロジェクトを引き継ぐ形で、新たな2リッター・ツーリングカーの開発が始まり、これは後に「DB1」として知られるようになる。レースでの可能性を探るべく同車のシャシーをベースにオープンボディのレーシングカーを作成。1948年のスパ 24時間レースで期待をはるかに上回る走りを披露し、見事に優勝を果たした。その後、当該車両はリビルトされ、1948年のロンドン・モーターショーにおけるアストンマーティン・ブースの目玉として展示された。しかし3000ポンドを超える価格設定が災いし、購入者は現れなかった。これを受けてアストンマーティン社の関心は、2リッター・スポーツの生産へと移行していった。

DB3S/5

フランク・フィーリーが設計を手掛けたDB3Sは1953年のル・マンを除き、出場したすべてのレースで勝利を収めた傑出したレーシングカーである。誕生から3年間でワークスカー11台、カスタマーカー20台が製作され、ワークスカーはボディデザインを含む数々の改良を重ねながら進化を続けた。5台目のワークスカーであるDB3S/5は、デイヴィッド・ブラウンの専用車としてキープされ、G-FRP製ボディをまとっていた。しかしチーム内での不運が重なり最終的には標準ボディに換装され、実戦に駆り出されることになった。幾多の著名なドライバーたちによってレースを戦い、その後プライベートオーナーの手に渡ったDB3S/5は波乱に富んだ歴史を持つ。また、コメディ映画『恋愛ルーキーズ(原題:School for Scoundrels)』にも出演という歴史を持つ。「ベリーニ」という名で巧みに偽装されたDB3S/5は、テリー=トーマス演じる悪漢、レイモンド・ドローニーが駆る車として登場した。DB3S/5は全DB3Sのなかで最も名高い存在と言えるだろう。

DBR1/2

今や伝説となった DBR1は、改めて紹介するまでもないアストンマーティンを代表するレーシングカーである。優美さと戦闘力を兼ね備えたこの5台は、4台がワークスカー、1台がプライベートドライバーのグラハム・ホワイトヘッド向けに製作された。スパ、ニュルブルクリンク、シルバーストン、エイントリー、グッドウッド、そしてアストンマーティンにとって最大の舞台であるル・マンで表彰台を獲得し、フェルサムのワークスのトロフィーキャビネットを埋め尽くした。キャロル・シェルビーとロイ・サルヴァドーリがステアリングを握り、チームメイトのモーリス・トランティニャン/ポール・フレール組を抑えて 1-2フィニッシュを達成した今や伝説の DBR1/2は、アストンマーティンのレーシングカーのなかで間違いなく最も重要な1台で、その価値はまさにプライスレスと言える。

DB4 GT ザガート 2 VEV

アストンマーティンにとってDB4は、多岐にわたるモデルファミリーの礎となった。エレガントなオリジナルのサルーンを起点に、ジェントルマンレーサー向けのGT、高性能なヴァンテージ、そしてコンバーチブルへと派生していった。すでに軽量化が図られていたGTをさらに極限まで磨き上げるべくイタリア・ミラノを拠点とするカロッツェリア、ザガートが起用され、実用性と美しさを両立したクローズドボディの設計が任された。軽量化を最大の目標に掲げ、ボディには20ゲージのマグネシウム合金製アウターパネルが採用され、車両重量は標準GTと比較して約68kg(150ポンド)の軽量化を実現。製作された19台のなかでも特に名高いのが、ジョン・オジャーが率いるエセックス・レーシング・ステーブルに託された2台である。この2台には「1 VEV」と「2 VEV」というナンバープレートが装着されていた。1961年のグッドウッドでジム・クラークがコーナリングを刻んだ名場面によって不朽の存在となった2 VEVは、最重要アストンマーティン20選にその名を連ねるにふさわしい1台である。

DB5 DP216/1:ゴールドフィンガー劇中車

アストンマーティン113年の歴史のなかで最重要の1台と言っても過言ではないDB5のプロトタイプ、DP216/1(開発プロジェクト216号車バージョン1)。「ガジェットカー」として広く知られる同車は、レッドに塗装された後期型DB4として生を受けた。現在もレッドのままだが(その色調については諸説あり、当初はスノー・シャドウ・グレーで注文されたという話も残っている)、DP216/1はTVシリーズ『セイント天国野郎」(原題:TheSaint)』の1エピソードに登場し、当時は”将来”のジェームズ・ボンドであるロジャー・ムーアとの共演を果たした。映画『007シリーズ/ゴールドフィンガー』ではパインウッド・スタジオのスタッフによって数々の武器装備、射出座席といったガジェット装着、そして新たにシルバー・バーチのペイントをまとった。映画公開後は世界各地でのイベントに参加し、続く『007シリーズ/サンダーボール作戦』の冒頭シーンにも再登場した。アストンマーティンの工場にて各種ガジェットが取り除かれた後、売却された当該車両は複数のオーナーの元を渡り歩いた。長年にわたりアメリカで過ごしてきたが1990年代後半に盗難に遭って以来、現在もその行方は分かっていない。

DBS V8仕様:『ダンディ2 華麗な冒険』のスター

本リストには映画やテレビ、著名人との縁によって名を馳せた車が数多く含まれている。このDBSも例外ではなく、TVシリーズ『ダンディ2 華麗な冒険(原題:The Persuaders)』の撮影全編にわたって使用された劇中車である。直列6 気筒エンジン搭載のDBSに、新たに登場したV8エンジン搭載モデルのGKN製合金ホイールバッジを装着した仕様でロジャー・ムーア演じる伊達男、ブレット・シンクレール卿が駆る車として全編に登場した。目を引くバハマ・イエローに仕上げられたこの車には、サーカスで名を馳せたビリー・スマートの厚意により「BS 1」というナンバープレートが貸与された。興味深いのは、ムーアがジェームズ・ボンドを演じた007シリーズでアストンマーティンを運転しなかった唯一のボンド俳優でありながら、このDBS V8仕様と行方不明となったD B 5 の双方を映画「キャノンボール」

で駆っているという事実だろう。マイケル・ケインの名台詞を借りるならば「あまり知られていないんですがね⋯」

ブルドッグ

アストンマーティンは、1967年の初代 DBSから発展させてきた伝統的な V8モデルの生産を続ける一方、1970年代後半には超モダンなウェッジシェイプのラゴンダで新たなる領域に挑挑もうとしていた。同社の技術力を世に示すべく設計されたのが「プロジェクトK-9」、通称"ブルドッグ"である。DBSやラゴンダなどのデザイナーであったウィリアム・タウンズが手掛けたブルドッグには、タデック・マレク設計の V8にツインターボを装着したエンジンが搭載され、最高出力は700bhpとも噂され、最高速は200mphを超えると目論まれていた。長年にわたり表舞台から姿を消していたブルドッグはフルレストアを経て2023年6月、ついに伝説の「200mphの壁」を超えた。

英国王のDB6 マークⅡヴォランテ

ジェームズ・ボンドの DB5が世界で最も有名なアストンマーティン車だとするならば、チャールズ 3世国王陛下が所有する DB6Mk2ヴォランテはアストンマーティン車として「一度に最も多くの人々の目に触れた車」という記録を持つかもしれない。その場面は2011年 4月29日。チャールズ 3世国王陛下の息子、ウィリアム王子とケイト・ミドルトンの結婚式のパレードである。長年にわたり、この車はエリザベス 2世女王陛下から皇太子時代の 21歳の誕生日に贈られたプレゼントだと広く信じられてきたが、それは事実ではない。当時プリンス・オブ・ウェールズであったチャールズ国王は1969年、この車を自ら購入し主に公務以外のプライベートな時間に愛用し続けている。

V8ヴァンテージ ヴォランテ”PoW”

もう1台の著名なロイヤルカーであり、同様の控えめなスタイリングを求めるオーナーたちのために21台が追加製作されるきっかけともなった1台。以来「プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)」仕様として知られるこの車は当時、まだ国王になる前のチャールズ皇太子が注文したV8ヴァンテージ・ヴォランテである。”通常”仕様では攻撃的な印象を与えるワイドホイールアーチ、フレアードシルパネル、そして深いフロントエアダムが取り除かれた。インテリアは、通常仕様ではコンソールから突き出るスイッチ類をパネルに埋め込んですっきりと整理。さらに皇太子専用車ならではの特注装備として、ポロ競技で馬に与えるご褒美用の角砂糖入れを備えた、大型センターコンソールボックスが設けられていた。PoWは、ベースとなった派手なヴァンテージヴォランテよりも時代を超えた魅力を放ち、80年代アストンマーティン車のなかで最も人気の高いモデルのひとつとなっている。

DB7 コンセプトカー

後に7000台以上が生産されることになる DB7。プロトタイプは 1993年のジュネーヴ・モーターショーにおいて、親会社フォードの最終承認前という大胆なタイミングで初披露された。量産車とほぼ同一の仕様ながら、プロトタイプには大型の着脱式ルーフパネルが備わっていた。ご存じの通り、着脱式ルーフパネルは量産化されることはなかった。『ゴールドフィンガー』のDB5がアストンマーティンの名を世界に永久に刻み込んだとするならば、これまでにない大量生産を前提とした、より手の届きやすいDB7こそが同社を真の意味で”救った”モデルと言える。このプロトタイプをジュネーヴ・モーターショーで披露したからこそ、数千件もの予約注文を集めるに至ったのだ。当時、アストンマーティンが約80年の歴史を通じて生産した車両の総数はわずか1万 3000台程度に過ぎなかったことを思えば、その反響の大きさは驚異的だった。

プロジェクト ヴァンテージ

DB7の成功は、アストンマーティンの将来性をフォードに確信させた。ニューポートパグネルにて職人の手によって製作されていたヴィラージュベースのモデルは老朽化が深刻で、後継車の開発が急務となっていた。そこで同社はフォードグループのパーツを積極的に活用し、「プロジェクトヴァンテージ」と名付けられたコンセプトカーを製作した。スーパーフォーム成形されたアルミパネル、コンポジット素材、カーボンファイバーなどを組み合わせモダンでありながら一目でアストンマーティンだと分かるフラッグシップが誕生した。新開発のV 12エンジンは自動クラッチ・シフト制御するセミATこそ採用されなかったものの、間もなくDB 7 ヴァンテージにも搭載されることになった。プロジェクトヴァンテージは1998年のデトロイト・オートショーを席巻し、瞬く間に3年分の受注残を生み出した。そして量産バージョンは2001年、「ヴァンキッシュ」として正式に発売された。

V12ヴァンテージRSコンセプト

自動車メーカーがコンセプトカーを市場に放出することは滅多にないが、この RSコンセプトは稀有な例となった。2007年、アストンマーティンがゲイドン本社に専用デザインスタジオをオープンした際に披露されたRSコンセプトは、やがて「V 12ヴァンテージ」へと道を切り開いていった。プロドライブが手掛けたチューンド・ドライサンプ仕様の V 12エンジンは RSコンセプト固有のものであり、量産車よりもレーシングカーに近い存在であった。広く愛された V12ヴァンテージの原点となったワンオフの R Sコンセプトは、公道走行可能な仕様に改修されたうえで VIP顧客に売却された。コンセプトカーが販売されるだけでも珍しいのに、公道仕様にまで改修されているという点で、極めて異例な存在と言える。

ヴァルカン:公道仕様

2007年にフォードによるアストンマーティン売却を経て、同社はラインナップの多様化を推し進め初の量産ハイパーカーである「One77」を世に送り出した。カーボンファイバー製モノコックにアルミ製ボディを組み合わせた One77は、驚異的な市販車(限定車ではあったが)であった。一方、スリルを求めるオーナーたちがOne77をサーキットへ持ち込んだが、ブレーキとタイヤの消耗が激しいことがすぐに判明した。アストンマーティンはこうした顧客の声に耳を傾け、サーキット走行に特化したOne77を製作する計画を立案した。プロジェクトはやがて専用設計のモデルへと発展し、独自のカーボンファイバーボディを持つ限定車「ヴァルカン」(24台限定)が生まれた。面白いものでサーキット専用車が投入されると、街乗りしたくなる顧客が出てくるようで1台だけ公道走行できるよう改修が施された車が存在する。なお、その車は公道を数千km走破しているらしい。

V8シグネット

One 77とは対極に位置するモデルとして、アストンマーティンは2009年に”シティカー”として「シグネット」を発表し世界を驚かせた。トヨタとの共同事業として、同社のiQをベースに開発されたこのモデルは、発表当初から物議を醸した。自動車メーカーが販売する全車両の平均燃費・排出ガス規制への対応の一環であったと同時に、小回りが効いて駐車スペースも最小限で収まるシティカーの提供を目的に、パフォーマンスよりも都市走行と効率性が重視された。アストンマーティンのエンジニアたちは、遊び心からあえてこのコンパクトなシティカーに4. 7リッターV8エンジンを搭載することを思いついた。このプロジェクトは就業時間外に極秘で進められたが、”小さなホットロッドプロジェクト”の噂をある顧客が聞きつけ、公道走行可能な仕様にすることを条件に購入を申し出た。2018年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードでの喝采を浴びたお披露目を経て、各地のイベントにも姿を現すようになった。2025年にオークションに登場した際、あらためてインターネット上で大きな話題を呼び、現在も各地のイベントに頻繁に登場している。

編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)

Consultant:Steve Waddingham Photographs:courtesy Aston Martin Heritage Trust