医療の届かない場所にいる人々のために、人生を捧げてきた小児外科医がいる。特定非営利活動法人「ジャパンハート」の創設者・最高顧問、吉岡秀人氏だ。

1995年に単身ミャンマーへ渡って以来、30年以上東南アジアで無償の医療活動を続けてきた。無償治療件数は40万件を超え、その活動は多くの人々を救い、また多くの人々の心を揺さぶり続けている。

なぜ吉岡氏は、これほどまでに過酷な道を歩み続けられるのか。その原動力と、吉岡氏が見つめる命の現場のリアルについて話を聞いた。

  • 特定非営利活動法人「ジャパンハート」最高顧問の吉岡秀人氏

    特定非営利活動法人「ジャパンハート」最高顧問の吉岡秀人氏

自らの意思で医療を"無償"で提供、吉岡秀人とは何者か

吉岡氏は1965年、大阪府吹田市に生まれた。幼少期は喘息を抱える病弱な少年で、実家の家業はオイルショックで廃業するなど、決して順風満帆な環境ではなかった。

転機は15歳のとき。テレビに映し出された、戦争や災害による飢餓に苦しむアフリカの子どもたちの姿だった。その絶望的な眼差しに、自分という存在との不公平さを突きつけられ、19歳で「医療の届かない人に医療を届ける」ために医師になることを決意する。

2浪の末に医学部へ入学し、卒業後は救急病院で腕を磨いた。1995年、戦後50年の節目にミャンマーでの医療支援を開始。以後、医療を受けられない人々へ"身銭を切りながら無償で"医療活動を続けてきた。2004年には「ジャパンハート」を設立し、ボランティアが参加しやすい独自の仕組みを構築している。

現在、ジャパンハートはミャンマー、カンボジア、ラオスを中心に、総勢のべ4,500人以上の医療者が参加する日本発祥団体では最大級の国際医療NGOへと成長。2020年・2024年には国連から「UNIATF Award」を、2021年には「菊池寛賞」を受賞するなど、その功績は国内外で高く評価されている。

吉岡秀人氏の「自分ごと」として生きる技術

  • 吉岡氏が出会い、治療してきた子どもたちとのエピソードを絵物語で描いた『小児外科医 吉岡秀人物語 ボクが行かんと誰が行く』(講談社)

    吉岡氏が出会い、治療してきた子どもたちとのエピソードを絵物語で描いた『小児外科医 吉岡秀人物語 ボクが行かんと誰が行く』(講談社)

――吉岡さんは15歳のときにテレビで見た飢餓の映像を「自分ごと」として捉え、人生を決められました。なぜ他の多くの視聴者のように「かわいそう」で終わらせず、自分の問題として受け止めることができたのでしょう。

吉岡氏: 一言で言えば「個性」というか、「相性」なんですよ。人間性がどうとかはあまり関係なくて、その刺激に対してどれだけのインパクトを持って反応できるか。日本中の人が同じ映像を見ていたはずですけど、たまたま僕の持っている感性と、そのときの環境やタイミングがぴったり合ってしまっただけだと思いますね。

僕にはスポーツの能力や、その他の才能もなかったし、たまたまその「不条理に反応する」という部分だけが、自分の中に強烈な記憶として残った。自分が何に惹かれるか、何が記憶にこびりつくか。それは実は、自分の才能がその分野を「かすっている」証拠だと思うんです。

でも、大抵の人は「自分には無理だ」とか「そんなの綺麗事だ」と余計な理屈を混ぜ込んで、その感性に蓋をしてしまう。僕はたまたま、その感性を捨てずに持ち続けてしまっただけなんです。

――大学受験ではなかなか勉強に身が入らず、2浪されていますが、ある日を境に一念発起したとお聞きしています。どのように気持ちを切り替えたのでしょうか。

吉岡氏: 人間って、実は「下を見て生きる」生き物だと思うんです。下を見たら、元気になれるでしょう?(笑)

浪人しているとき、ふと友達が持っていた偏差値表を見たんです。そしたら、国立大学でも田舎の方に、自分の今の成績でも「これ、ひょっとしたらいけるんちゃうか?」と思える医学部があった。その瞬間、急に「あ、俺、医者になるんだった」って思えた。

自分よりはるかに優秀なやつがすごいことをやっていても、「自分とは違う世界の話だ」と距離を感じるだけです。でも、自分でも手が届くかもしれないと思えるような目標を見つけたときに、「ここなら行ける」というスイッチが入る。そうやって"下"を見て、自分にも可能性があると確認した瞬間に、人間は一気に走り出せるんですよ。

  • 当時を振り返る吉岡氏

    当時を振り返る吉岡氏

――な、なるほど……。たしかに、なんとなくわかります。

吉岡氏: ただ、そこからが大変でした。3年間全く勉強してこなかったから、まず「椅子に座る」ことができない。座っているだけでイライラしてきて、数ヶ月かかってようやく勉強する姿勢が身についた。周りからは「あいつ、頭がおかしくなったんちゃうか」と言われましたよ。文系のやつがいきなり医学部なんて言い出したもんだから。

でも、誰にも応援されない、誰も信じてくれないという状況に置かれたときに思ったんです。「せめて自分だけは、自分の可能性を信じてやらないといけない」と。ここで世間の言う通りに諦めたら、僕は一生、何かにチャレンジするたびに「やっぱり無理だ」と諦める癖がついてしまう。その恐怖がすごかった。ダメでもいいから、一回やれるだけやってからダメになりたい。そう思って、意地でやり抜きました。

「もっと技術を上げないと申し訳ない」エイズの男の子との出会い

――そうして見事、医師になられたわけですが、ミャンマーでの活動を始めてから、最も心に残っている出会いを教えてください。

吉岡氏: 10代のエイズ(AIDS:後天性免疫不全症候群)の男の子のことですね。当時はまだ病院も設備も整っていなくて、僕の自宅の離れで寝泊まりさせて、毎日治療していたんです。長く点滴を続けていると、血管がボロボロになって、どこを刺しても薬が入らなくなる。看護師が何度もやり直して、どうしても入らない。普通の患者さんなら「痛いやないか!」「いい加減にしろ!」って怒るでしょう?

でも、その子は血管に針が入らなかったときに、自分の手を一生懸命パチパチ叩いて、自分を責めたんですよ。「自分の血管がちゃんとしていないから、点滴が刺せないんだ」って。相手を責めず、自分を責めるんです。

医療を受けられることが当たり前じゃない国では、医療を受けられるだけで幸せだと、彼らは本気で思っている。その姿を見たときに、医療者として「この子たちのために、もっと技術を上げないと申し訳ない」と心底思わされました。

  • 子どもを診察する吉岡氏(同書より抜粋)

    子どもを診察する吉岡氏(同書より抜粋)

――日本では「治してもらって当たり前」と無意識に考えている人も多いと思いますが、大きなギャップですね。しかし、ミャンマーの過酷な環境で、心が折れそうになることはなかったのですか?

吉岡氏: 何回もありますよ(笑)。でも、それはミャンマーだからじゃなくて、日本にいても、アメリカにいても、一生懸命生きている人間には必ず起こることなんです。向かい風が強くなるのは、自分が一生懸命走っている証拠ですから。

電気が来ない、水が濁っている、設備がない。できない理由を数えればキリがない。でも、そういう国だからこそ、僕らが役に立つわけです。設備が完璧な場所なら、僕らが行く必要なんてない。不自由な環境と、自分が最高に役に立てる場所というのは、常にセットなんです。

――どのようにそのモチベーションを保っているんですか?

吉岡氏: 実は非常に単純で、「すべては自分のためにやっている」というだけのことです。「人のために」と思ってやると、感謝されなかったときに腹が立つでしょう。「せっかくやってあげているのに」という傲慢さが出る。

でも、自分がやりたくて、自分が選んでやっていると思えば、結果がどうあれ完結できるんです。患者さんは僕に「最高に価値のある人生を生きるチャンス」をくれている存在。だから、感謝するのは僕のほうなんです。

「ゴールはない。今見える景色を楽しみながら、活動を続ける」

――最後に、吉岡先生にとっての「ゴール」はどこにあるのでしょうか。

吉岡氏: 最終的なゴールなんて、実はないんですよ。山登りに例えるなら、地上にいるときは目の前の大きな木を見ている。でも500メートル登れば、その木は森の一部に見える。さらに登れば、ただの緑の点になる。登れば登るほど、見える景色が変わるんです。

今、僕に見えている未来は語れます。でも、もっと登った先に見える景色は、まだ僕にも見えていない。だから「ここがゴールだ」なんて言えないんです。

でもね、山の頂上が「ない」とわかったとき、人間はどうするか。今、この瞬間の景色を楽しむようになるんですよ。空の色、風の香り、目の前の患者さんとの時間。ゴールがないからこそ、今を全力で生きることができる。

僕はこれからも山を登り続けます。重力に逆らう作業だからしんどいし、上に行けば酸素も薄くなる。でも、だからこそ遠くが見える。その時々に新しく見える景色を楽しみながら、今の活動を続けていくだけですね。

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今回話を聞いた𠮷岡秀人氏の歩みを描いた絵物語『小児外科医 𠮷岡秀人物語 ボクが行かんと誰が行く』(講談社)が6月23日に発売された。「落ちこぼれ」だった吉岡少年が医師となり、困難に立ち向かい、世界の子どもたちの命と心を救い続けていく物語が描かれている。

『小児外科医 𠮷岡秀人物語 ボクが行かんと誰が行く』(講談社)

定価:¥1,980円
文:高木香織/絵:片塩広子
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