
日系ブラジル人シンガー・Mariana Matsuiが、美空ひばりの「川の流れのように」をカヴァーした。1989年に発表された同曲は、世代を超えて歌い継がれてきた日本のスタンダード。本作で楽曲プロデュースを手掛けたのは、トランペッター/ピアニスト/コンポーザーとしてジャズ、ポップス、クラシックを横断する活動を続ける曽根麻央。さらに、日本におけるボサノヴァの第一人者として知られる小野リサがフィーチャリングで参加し、原曲の持つ普遍的なメロディに、ボサノヴァやジャズのエッセンスを織り込んだアレンジが施されている。ブラジルと日本という二つのルーツを背景に持つMariana Matsuiが、この名曲にどのように向き合ったのか。音楽評論家の渡辺亨が訊いた。
このほどデジタル・リリースされたMariana Matsuiの「川の流れのように」は、美空ひばりの名曲のカヴァーだ。原曲は美空ひばりの生前最後のシングルにあたり、1989年1月に発売された。日系ブラジル人歌手であるMariana Matsuiは、この「川の流れのように」を、ごく自然な発音の日本語で歌っている。
「”川の流れのように”をレコーディングするというアイデアは、2026年秋にリリースされる予定の私のデビュー・アルバムのコンセプトから生まれました。私はこのプロジェクトを通して、自分のルーツやアイデンティティを音楽で表現したいと思っているのですが、”川の流れのように”をファースト・シングルに選んだことは、自分にとって特別な、そして懐かしいという意味合いを持っています」
Mariana Matsui自身は、ブラジルのマットグロッソ・ド・スル州ドゥラードス生まれ。しかし、彼女の母方の祖母は北海道雨竜町に生まれた日本人で、17歳の時に家族と共に移民としてブラジルに渡ってきた。
「その祖母のおかげで、私は幼い頃から日本の文化に触れ、ひらがな、カタカナ、そして基本的な漢字の読み書きを覚えました。ただ、祖母はブラジルに移民してから長いので、私との会話はポルトガル語と日本語が混ざったものでした。ですから私は、日本語の会話力や読み書き能力を十分には身に付けることができませんでした。ただし、日本語の発音は、音楽を通して自然と身に付いたような気がします。私自身は2021年に日本に移住したのですが、それから本格的に日本語学習に力を入れ始め、今も学習を続けています」
Mariana Matsuiは、ブラジルで暮らしていた頃から祖母の影響で、日本の歌謡曲に親しんでいたという。
「日本の文化は、私の人生に常に自然な形で存在していました。私は8歳の頃から祖母と一緒に日本のテレビ番組を見ていて、美空ひばりさんや五木ひろしさん、坂本冬美さんといったアーティストを知りました。当時の私は歌詞の意味を完全に理解していたわけではありませんでした。でも、メロディーには私の心を深く揺さぶる何かがありました。つまり私は、彼らの歌を言葉で理解する前から、すでに何らかの繋がりを感じていたのです。美空ひばりさんは、私が初めて聴いた日本人歌手です。彼女の声に宿る力強さと優しさ、そしてそれぞれの歌を圧倒的な存在感で歌い上げる姿に、すっかり心を奪われたことを覚えています。そんな美空ひばりさんの歌声は、すでに90歳になる祖母と一緒に過ごした数々の幸せな思い出を私にもたらしてくれます」
Mariana Matsuiの「川の流れのように」の音楽プロデュースを手掛けたのは、曽根麻央。ピアノとトランペットを自在に演奏し、ジャズからクラシックまで幅広い世界を横断しつつ、さまざまなプロジェクトで活動しているマルチ楽器奏者/作曲家だ。そしてこのカヴァーには、小野リサが客演。たおやかな歌声で、Mariana Matsuiのヴォーカルに寄り添っている。
「かつてプロデューサーの曽根麻央さんと共演する機会があり、それは素晴らしい経験でした。だから今回のコラボレーションもごく自然な流れで、すべてがスムーズに進みました。以前、私はボサノヴァ寄りのスタイルで、”川の流れのように”を何度かライブで演奏したことがありました。ですから、今回の曽根さんとの一緒の仕事は、そのライブが明らかに参考になっています。私としては、”川の流れのように”は日本の曲なので、ぜひブラジル音楽やジャズの要素を取り入れたいと思っていました。曽根さんはその点をとても繊細に捉え、原曲のエッセンスを尊重しつつ、ブラジル音楽やジャズの雰囲気を醸し出すアレンジをしてくれました。小野リサさんに参加していただけたことは、本当に光栄でした。小野リサさんの歌にはずっと前から親しんできましたけど、彼女の独特な歌声はブラジルと日本の交差点という、私自身も深く共感する場所を美しく表現していると思います」
小野リサ
Mariana Matsuiは、8歳の頃からギターを手にして音楽活動を始めたという。ブラジルで過ごした子供時代は、どんな音楽を聞いて育ったのだろう。
「私が4歳の頃、ブラジルではカラオケマシンが大流行していて、我が家にも一台ありました。母は私が音楽に興味を持ち始めていることに気づき、それがきっかけで、ごく自然な形で音楽との出会いが訪れました。母によると、当時から私は音程が正確で、歌を覚えるのも得意だったそうです。当時は、ミルトン・ナシメント、エリス・レジーナ、クララ・ヌネスのレコードをよく聴いていたのを覚えています。おそらく私が初めて聴いたブラジル人アーティストは、彼らだったでしょう。その後、ジョアン・ジルベルトやトム・ジョビン、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、マリーザ・モンチといったブラジルのアーティストが、私にとって重要な存在になりました。また、10代の頃にエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、チェット・ベイカーを通してジャズに出会い、すっかり魅了されました」
現在Mariana Matsuiは日本でライブを中心に活動しているが、最後に今後の音楽的方向性を語ってもらった。
「ブラジル人アーティストとして、私はブラジル音楽をできるだけ多くの人々と分かち合いたいという強い願望を抱いています。同時に、日本にルーツを持つ者として、祖先との深い繋がりと、それを尊重する責任を感じています。音楽は、私が何者であり、世界で何を象徴しているのかを理解することを可能にしてくれます。私の二つのバックグラウンドは、芸術家としての、人間としての、自分のアイデンティティにとって必要不可欠です。私は、これらの文化が有機的に共存できる、誠実で親密なサウンドを創造していきたいと思っています」
<リリース情報>
Mariana Matsui
シングル「川の流れのように feat. 小野リサ」
2026年5月1日(金)リリース
(C)1988 by Skylark Music Publishing オリジナル歌手 美空ひばり
