【プリンス没後10年】クエストラヴ特別寄稿──彼が愛する名曲10選

2016年4月21日に57歳の若さで急逝したプリンス(Prince)。彼の没後10年にあたる今年4月21日、ザ・ルーツのドラマーであるクエストラヴが、自身の愛するプリンスの名曲100選のリストを米Rolling Stone誌に特別寄稿。その上位10曲の日本語版を先行してお届けする(※完全翻訳版は後日公開予定)。

僕は、たとえ対象を愛していたとしても、この種のリストを作るのが大嫌いだ。それは、これまでの人生で吸った空気の中で「どの息が一番お気に入りだったか」と聞かれるようなものだから。僕は長い間、これは勝ち目のない試みだと思ってきた。プリンス・ファンが集うサイト「Prince.Org」の住人たち(故人も僕も恐れていたグループだ)の逆鱗に触れるリスクがあるから。それでも僕は今、あえてその勝ち目のない勝負に挑もうとしている。

僕のことを、プリンスのキャリアの最初の10年間にしか価値を置いていないと噂する向きもある。おそらく、僕自身が長年そのような発言をしてきたからだろう。それについては、ある程度認めざるを得ない。もっとも、僕なりに理由はあってのことだ。その最初の10年間、プリンスは歌詞、編曲、演奏、ボーカル、あらゆる面で常に革命的な音楽を届け続けてくれた。そして当時の僕は11歳〜21歳という、すべてを受け入れるのに最適な時期にあり、新しいアイデアに心を開き、彼が作り出すものに常に爽快な繋がりを感じていた。だが年を重ねるにつれ、僕の期待値は変化していった。新譜に対する反応は鈍くなり、毎回スレッジハンマーで殴られるような衝撃を受けることも少なくなった。それでも彼の死後、僕は彼の音楽を以前とは違う形で聴くようになり、全カタログを聴き直すに至った。晩年の作品を正しい心構えで受け入れられるようになるまで10年を要したが、今もまだその途上にある。

いくつか基本ルールを挙げておく。

このリストを作成するにあたって、僕はプリンスが書き、あるいはプロデュースしたもののうち、公にリリースされたすべての作品を対象とした。現時点では、デラックス版のリイシューに収録されたいくつかのアウトテイクやデモも含まれる。これらの楽曲の大部分はストリーミングで聴くことが可能だ。契約上の煩雑な手続きにより一部聴けないものもあるが(そこはYouTubeで探してほしい)。

トップ10については以前活字になったこともあるが、それらの項目もここではわずかに異なる内容の、一部はより長いバージョンで掲載している。お分かりのように、僕はエクステンデッド・リミックスが好きなんだ。

全部で100項目あるけれど、それがイコール100曲であることを意味するわけじゃない。2、3曲で一つのまとまり、あるいはセットとして考えるべきだと思った場合には、多少ルールを曲げた。多用はしていないが、これは少しでも多くのプリンスを詰め込むための工夫だ。時には100という数字では到底足りないこともある。

最後に(これだけは念押ししておきたいのだが)、僕はプリンスの「最大のヒット曲」や、いわゆる「最高傑作」のリストを作っているわけではない。君の好きな曲が抜けていることもあるだろう。それは、僕がポップカルチャーにおける影響力の大きさではなく、彼について、そして彼がいかに音楽を作ったかを最も雄弁に語ってくれる曲に注目しているからだ。もちろんモンスター級のヒット曲も含まれているけれど、僕にとって最も重要なのは、それらのヒット曲の陰で彼が成し遂げたことなんだ。

僕がこのリストを作った目的は、プリンスがなぜ天才であり、今も、そしてこれからも天才であり続けるのかを知るためのチートコード(裏技)を提供することにある。

よし。では、リストを始めよう。

10位

ザ・タイム「777-9311」

(収録:『What Time Is It?』1982年 / 録音:1982年5月)

プリンスはあらゆるルールを壊してきた。「ベース抜きの曲を作ろう!」「キーを変えても元の曲の整合性を保てるかな!」「このリミックスを正気とは思えない長さまで引き延ばしてやれ!」「やっぱりもう一曲、ベース抜きのを作ろう!」といった具合に。

けれど、ブラックミュージックには一つだけ絶対的なルールがある。それは「1拍目(The One)」を確立することだ。4拍子の中で最も重いリズムであり、これこそがブラックネスを授けるものだという合意がある。1拍目を強調しないのは、重力の法則に逆らうようなものだ。

ところが、ザ・タイムの2ndアルバムに収録されたこの曲は、まさに重力に抗っている。1拍目が一度も確立されないまま、これほどまでにブラックな響きを持つ曲は他にない。冒頭からしてギターのフレーズで始まり、そこにドラムが加わる。ハンドクラップだけが、この曲にどう反応すべきかを示す唯一のGPSだ。僕たちはこの狂ったリズムでどう踊ればいい? まるで、服部半蔵が鍛え上げたカミソリの縄でダブルダッチを強要されているような気分だ。それくらい、リズムを掴むのが難しい。

始まりがそうなら、終わり方もまた驚異的だ。モーリス・デイの「cock-blocking(お邪魔虫)」な演技と、予想だにしないギターソロを経て、プリンスは『キャット・イン・ザ・ハット』のような鮮やかな手際ですべてをまとめ上げる。ドラムとベースだけをフェードアウトさせて曲を締めくくる。あらゆる意味でブラボーなパフォーマンスだ。

しかも、この曲は絶対に成功させる必要があった。前年の10月、プリンスはロサンゼルスでローリング・ストーンズのファンからブーイングを浴び、ステージを降りている。彼はそこから立ち直り、基盤を築き直さなければならなかった。この時期はまさにその真っ只中。「Aisle Purple(紫の通路)」の清掃作業といったところだ。このザ・タイムのアルバムが『Vanity 6』を生み、それがさらに『1999』へと繋がっていく。

最後に補足しておくと、この曲のドラム・プログラミングはプリンス自身によるものではない。リン・ドラムの開発者であるロジャー・リンは、トップドラマーたちを訪ね歩き、彼らのビートをマシンに叩き込んでもらっていた。この曲で使われているのは、タワー・オブ・パワーのデヴィッド・ガリバルディによるビートだ。当時、プリンスとタワー・オブ・パワーは共にカヴァロ、ルファロ&ファーニョリのマネジメント下にあった。

自身の進退を懸けた、何よりもリスクの高いこの曲で、プリンスは自分が作ったのでさえない素材を用いた。僕が彼をヒップホップの先駆者であり、その設計図を描いた一人だと見なす理由は、一つや二つではないんだ。

9位

「Sister」

(収録:『Dirty Mind』1980年 / 録音:1980年6月)

もし「Sister」が1分30秒という短さでなかったら、これほど上位に食い込むことはなかっただろう。また、この曲が彼にとって最もタブーな性的シナリオを描いているから順位を上げたわけでもない(間違いなくその通りではあるけれど。念のため、僕はリリース済みの音源だけを対象にしている)。

この曲の驚異的な点は、そのわずかな演奏時間の中に、物語のプロットすべてを詰め込んでいることだ。まるで、40年以上も前からInstagramやTikTokがもたらす未来を予見していたかのようじゃないか。現代はミニドラマが新たなスタンダードとなっている時代だ。プリンスがこれほどまでに救いがなく、それでいて目を離せない物語を90秒で描ききったという事実は、歴史に残る偉業だと言える。

歌詞を一行ずつ追っていくと、後悔、無垢、脆弱さ、混乱、恐怖、否定、そして再び後悔と怒りへと、感情が目まぐるしく移り変わっていく。語り手は、虐待とトラウマを咀嚼しようとしている10代の少年だ。ここには他の楽曲、ましてやポップソングにはまず見られないような心理的な密度がある。ショックの強さゆえに(これ以上の順位にはせず)この位置に留めたけれど。

8位

「Purple Rain」

(収録:『Purple Rain』1984年 / 録音:1983年8月)

アルバムとしての『Purple Rain』は、ほぼ完璧なビジョンを提示している。あまりに完璧すぎて、かえってその完成度を批判したくなってしまうほどだ。僕は芸術における「欠陥」を好む。それが人間味を与えるからだ。

けれど、当時のプリンスがどれほどの賭けに出ていたかは理解しておく必要がある。彼は自分の人生とキャリア、そしてスターダムを夢見てこの野心的なカルト映画に携わったすべての人々の未来を懸けて、ロシアン・ルーレットをしていたんだ。そんな背景を踏まえてあえて言うなら、僕にとってこのアルバムは「Baby Im a Star」で完結してしまっている。そのためタイトル曲であるこの曲の扱いは難しく、自分から進んで聴くことはあまりない。

それでも、この曲の存在理由は分かっている。ライターの火を高く掲げるための、痺れるようなアリーナ・アンセムだ。プリンスは、初期の「Free」のような「ビッグ・アンセム」のバイブスを追い求めていた。かつての政治的な楽曲はメインストリームで好まれることはなかったが、この曲は違った。

正直、歌詞には首をかしげることもある。けれど、ここにある感情の本質は明快だ。複雑なメロディよりも「感じること」が重要で、普段の彼からは想像もつかないほど謙虚な、予期せぬ謝罪の歌なのだ。また、プリンスは完璧なエンディングを作る達人でもあったが、これは間違いなく彼のベストの一つだろう。

彼の愛聴盤の一枚に、ルーファス&チャカ・カーンの最高傑作とされる『Ask Rufus』がある。クレア・フィッシャーによるオーケストレーションは、ブラックミュージックをより感情に訴えかけるものへと変貌させた。「Purple Rain」のラスト2分間はそのフィッシャーの仕事へのオマージュであり、その1年後、プリンスは彼と永続的な音楽パートナーシップを結び、さらなる芸術的探求へと突き進むことになる。

7位

チャカ・カーン「I Feel For You」

(収録:『I Feel for You』1984年)

「I Feel for You」がプリンスの輝かしい功績の一つであることは否定できないが、皮肉なのは、その後の歴史的な成功に彼自身はほとんど関与していなかったという点だ。もちろん、原曲を書いたのは彼だ。でも当時の僕は、2枚目のアルバム『Prince』の中ではこの曲をただの「数合わせ」だと思って切り捨てていた。「Sexy Dancer」のような強力なトラックの影に隠れて、完全にスルーしていたんだ。

この曲を激変させたのは、プロデューサーの天才アリフ・マーディンだった(ザ・システムのデヴィッド・フランクによる貢献も大きい)。彼はこの曲に眠っていたポテンシャルを見抜いていた。彼らは単にカバーしたのではなく、楽曲を完全に再構築し、とてつもなく巨大な何かが生まれる舞台を整えたんだ。

このレコードはプリンスにとっても転換点となった。ソングライターとして初のグラミー賞をもたらしただけでなく、R&Bの進化にまつわる興味深い問いを突きつけたからだ。「R&Bにこれほど太いビートを組み込めるのか?」「ラッパーをフィーチャーできるのか?」そして同時に、「スティーヴィー・ワンダーのような巨人を、あえて『脇役』として配置できるのか?」といった問いだ。

サンプリングの使い方も革新的だった。スティーヴィーを2度登場させ、彼自身の20年前のヒット曲「Fingertips」の断片をミックスした。これは非常に危ういバランスの上に成り立つ試みで、一歩間違えれば、時代にしがみつこうとする無様な足掻きに見えたかもしれない。けれど、結果は見事だった。プリンスのソングライティングがいかに比類なきものかを世に知らしめたんだ。

この曲はニュージャック・スウィングの到来を告げる重要な瞬間であり、後のメアリー・J. ブライジやバッド・ボーイ・レコーズのムーブメントの礎を築いた。プリンスがボツ同然に扱っていたかもしれない曲が、チャカ・カーンのようなアーティストにとってはキャリアを象徴するハイライトになった。こうしてプリンスは、音楽業界における創造性と革新のハードルを、とてつもなく高い場所に設定したんだ。

6位

ザ・タイム「Cool」

(収録:『The Time』1981年 / 録音:1981年4月)

プリンスは「中間(the middle)」を完璧に演じる必要性を熟知していた。常に自分自身のままでいれば、型にはめられてしまうからだ。「I Wanna Be Your Lover」で当時のティーン向け雑誌を総なめにした彼は、続く『Dirty Mind』でその限定的なイメージを払拭した。さらに『Controversy』では、自分が黒すぎも白すぎもせず、ストレートすぎもゲイすぎもしない存在であることを確立した。

けれど、プリンスは中間に留まることでバランスを取ったわけじゃない。あらゆる極端な要素へと振り切り、それらを相殺させることで平衛を保っていたんだ。プリンスには「ストリート」の側面を見せる必要があった。彼はそれを確信していたけれど、有能な売人は中毒にさせる前にまず「味見」をさせるものだ。

彼のファンクを世に送り出すためのデリバリー・システム、それがザ・タイムだった。彼らは言わば当時のN.W.A.のような存在だったと言えるだろう。まず見た目がギャングそのものだった。そしてモーリス・デイは、それまでの歌手とは一線を画していた。それまでの僕は歌手の才能や落ち着きに感嘆していたけど、モーリスは「僕がなりたい姿」そのものだった。歌詞の中や自分のバンドに対して命令を叫べば、魔法のようにそれが具現化する。彼はリチャード・プライヤー(コメディアン)のような面白さを持っていて、マンガ的なやりすぎ感もなかった。彼の自信には説得力があったんだ。

当時10歳だった僕にとって、そのすべてが憧れだった。ザ・タイムは「親が近づくなと言うような奴ら」だった。たとえ僕の保守的で宗教的な両親が、別の理由でプリンスに対しても苦言を呈していたとしてもね(「おむつを履いてるあの子のアルバムは買うな」というのが親父の口癖だった)。

「Cool」はヒップホップの設計図を描いている。モーリスは車や女、不動産の所有について語る。これはジェイ・Zへの道を切り拓いたと言える。個人的な話をすれば、この曲は僕に「夢の見方」を教えてくれた。歌詞の内容がそのまま、僕自身の成功へのバケットリストになったんだ。年月を経て、僕はつま先にダイヤモンドを散りばめること以外の、この曲にある自慢話をすべて実現させてきた。

Siri、明日、つま先専門の宝石商との予約を入れておいてくれ。

5位

「1999」

(収録:『1999』1982年 / 録音:1982年7月14日)

まずはボーカルから話を始めよう。「1999」は、プリンスがブラック・ポップにおけるもう一つの巧妙な仕掛け──ギリシャ悲劇のコーラス(合唱隊)的手法──を試す絶好の機会となった。大勢がユニゾンで歌うことで、聴き手にも「一緒に歌っていいんだ」という許可を与える手法だ。これには威圧感がなく、誰もが同じ音を共有できる。スライ&ザ・ファミリー・ストーンが先鞭をつけ、ジョージ・クリントンがその頂点を極めた手法だが、「1999」はプリンスの楽曲の中でも、その設計図に最も近い。一人ひとりに歌い繋ぐパートがあり、やがて全員が合流する。そうしてプリンスは、このユートピア的で奇妙な世界を構築していくんだ。

僕がここで「ユートピア的」と言うとき、それは「終末論的」という意味も含んでいる。すべてが終わりゆく世界の淵で踊り狂うような感覚。苦痛や死を前にしてなお、いかにパーティーを楽しむかを学ぶ──これこそがブラック・ニヒリズムだ。

次に音楽面に目を向けてみよう。僕の目には、この曲は皮肉なほど「確信犯的にブラック」に映る。プリンスのドラム・プログラミングには、スライの「Family Affair」以来、どの楽曲よりも多くの革新が詰め込まれている。メトロノームのように規則的なドラムマシンの音をギターのエフェクターに通すことで、そこに命と個性を吹き込んだ。ドラムパートの最初の一打が鳴った瞬間、僕たちは新しい世界へいざなわれる。

当時、オーバーハイムのシンセサイザーやリン・ドラムはすでにハービー・ハンコックやクラフトワークの手に渡っていたし、ゲイリー・ニューマンも素晴らしい成果を上げていた。でも、プリンスはそれらを手に取り、完成させたんだ。往々にしてあることだが、先駆者は賞賛を浴び、それを最初に追随した者が栄光を掴む。さあ、踊り続けよう。

4位

「The Beautiful Ones」

(収録:『Purple Rain』1984年 / 録音:1983年9月20日)

『1999』がカルト的なファンによる「パープル・アーミー(紫の軍隊)」を徴兵しようとする試みだったとするなら、『Purple Rain』は大衆のための「パープル・レリジョン(紫の宗教)」を設計するための戦略だった。そこで最も重要だった進化は、「ニュアンス」と「エディット」だ。

この曲について僕が学んだ二つの事柄は、『Purple Rain』というアルバム全体の核心を教えてくれる。第一に、収録された9曲はすべて、元々はもっと長い状態で存在していたということ。リリースに至る過程で、プリンスは過去のアルバムからの熱狂的なファンと、新たに加わったメインストリームのファンの両方を満足させるために、曲の「カット」の仕方を完璧に習得したんだ。その削ぎ落とす作業が、この曲を含むすべての楽曲をよりパワフルでダイレクトなものにした。

第二に、この曲で彼の怒りに満ちたバリトン・ボイスが、初めてその全貌を現したこと。僕は、この独特のボーカル・キャラクターが一体どこから来たのかずっと知りたいと思っていた。映画の文脈では恋人に訴えかけているように見えるし、プロットもそうなっているけれど、どうしても腑に落ちなかった(僕の脳内では「待てよ、二人は会ったばかりだろ……なんで3番の歌詞でもう結婚を迫ってるんだ? プリンスはビジネスの話でもしてるのか? いや、これには絶対に別の理由があるはずだ」とツッコミが入っていた)。

エズラ・エデルマンが制作し、悲劇的にもお蔵入りとなったプリンスのドキュメンタリー『The Book of Prince』については、波風を立てたくないので言及しないと自分に誓っていた。けれど、あの映画の中で明かされたこの曲にまつわる事実は、一度聞いてしまったら最後、僕の耳から離れなくなってしまったんだ。

もしこの曲が恋人についてではなく、実の母親との波乱に満ちた関係について歌われていたとしたら? 傷ついた14歳の少年が、母親に向かって「僕と継父のどちらかを選んでくれ」と問いかけているのだとしたら? 彼の腹の底にある怒りや憤怒がどこから来ているのかをずっと知りたかったけれど、それこそがオリジン・ストーリーなのだと僕は信じている。

僕は、このパフォーマンスをマイケル・ジャクソンの「Shes Out of My Life」と同じように受け止めた。胃袋を直撃されるような感覚だ。ここに映し出されているものが、稀に見るカタルシスを伴う「真実の吐露」であると瞬時に悟った。ただの演技であるはずがない。

3位

「When Doves Cry」

(収録:『Purple Rain』1984年 / 録音:1984年3月1日)

今回ばかりは、ちょっとした自慢を許してほしい。僕は、24トラックすべてを使い切った「When Doves Cry」の完全版を聴いたことがある。この特権を授かった人間は、ごくわずかしかいない。「めちゃくちゃ(Messy)」という表現ですら、まだ生ぬるいくらいだ。後にパブリック・エナミーが『Fear of a Black Planet』で見せた混沌に近いというか、ありとあらゆる要素を詰め込み、さらに台所の流し台まで放り込んだような音だったんだ。そのオリジナル版は、まるで野心に溢れすぎたオーディションのようで、絶叫するギターとシンセサイザーのラインが、これでもかとばかりに自己主張し合っていた。「お母さん見て、全部の指を使って弾いてるよ!」と言わんばかりにね。

一方で、初期のプリンスが備えていた「自己編集能力」は奇跡的だった。初心者は往々にして、手痛い失敗からそれを学んでいくものだが、プリンスは違った。彼は天才的なひらめきによって、そのうちの6トラック──ベース、ギター2本、そして残りのシンセサイザーの山──を文字通り削ぎ落とし、最小限の骨組みにまで剥き出しにしたんだ。そのおかげで、僕たちはこの曲の核心を聴くことができた。

ドラム・プログラマーとしてのプリンスはこの時期、別次元の領域にいた。生み出されるリディムは、どれも前作より革新的で挑発的だった。そして例のベース、というより「ベースの欠如」についてはどうだろう? 当時13歳だった僕は、ブラック・ミュージックの良し悪しがすべてベースラインで判断されているなんて完全には理解していなかった。ベースがなければ「ブラックな感触」にならない、なんて結びつけて考えてもいなかったんだ。ベース(それが生楽器であれ808の質感であれ)は、僕たちのアイデンティティそのものだった。ベースラインのないブラック・ソングをリリースすることは、大罪とすら見なされていた。

ミニマリズムなビッグ・ビートを聴いて育ったヒップホップ世代の僕にとって、この曲はランD.M.C.やラリー・スミス、あるいはUTFOやフル・フォースが作り出していたサウンドと同じ響きを持っていた。プリンスはそのキャリアを通じて、後に続くヒップホップの設計図を提供し続けたんだ。12年以上も後にザ・ネプチューンズやスウィズ・ビーツが提示することになるキーボード・ビートのプロトタイプは、この「When Doves Cry」だったと言ってもいい。なんて時代だったんだろう。

2位

「Do Me, Baby」

(収録:『Controversy』1981年 / 録音:1981年春)

子供の頃の僕は、プリンスのバラード曲をいつも飛ばしていた。音楽的なお宝を探し求めていたドラマー志望のガキにとって、まず心を掴むのは速い曲だったからだ。バラードなんて退屈だ──それが10歳の単純なロジックだった。当時の僕が、好きな子のためにクワイエット・ストームのミックステープでも作ると期待していたのかい?

それから15年後。ディアンジェロが、僕がプリンスのバラードを好きじゃないと知ったとき、彼は僕をエイリアンでも見るような目で見た。僕たちは初めて本気で言い合いになり、僕は自分の立場を必死に守ろうとした。それからプリンスが亡くなった後、アルバムやブートレグを聴き直してようやく、自分がどれほど「Do Me, Baby」を過小評価していたかに気づかされたんだ。

歴史的に見れば、黒人歌手たちはラジオや若い(白人の)聴衆に受け入れられるよう、自身のセクシュアリティを抑え込んできた。ファルセットは、脅威を与えない存在として生き残るためのツールでもあったんだ。クライド・マクファターやエディ・ケンドリックス、フィリップ・ベイリーといった伝説的なファルセット・ソウル・シンガーたちが高い音域で歌っていたのには、そういう理由もあった。

しかし、プリンスは自身のハイパーセクシュアルなイメージに対して、少し違うアプローチをとった。「Do Me, Baby」は紛れもなくセクシュアルな楽曲だが、その「脆弱さ(vulnerability)」において画期的だった。それまでの音楽界で、絶頂の瞬間を表現するのは女性歌手の役割であり、男性歌手は常に攻める側だった(バリー・ホワイトの滑らかで低い声は、お世辞にも脆弱さを伝えてはいなかったし、ジェームス・ブラウンの絶叫はまるで雄叫びだった)。「Do Me, Baby」の勇敢な点は、その台本をひっくり返したことにある。これは「一晩中抱いてやる」といった決まり文句の羅列ではない。柔らかさ、慈しみ、そして親密さについての歌なんだ。

「Parental Advisory(保護者への勧告)」のレッテルを貼られた男といえば、世の父親たちが娘を遠ざけるような危険人物だと思われがちだが、プリンスの繊細さ(sensitivity)は、当時の人々がまだ受け入れる準備ができていなかったほど、気高い質を備えていた。皮肉なことに、彼のライバルであるマイケル・ジャクソンは(「The Love You Save」の頃から)、潜在意識下で性的な振る舞いを咎める王様だったわけだが。

結局のところ、この曲はプリンスのキャリアにおいて、文句なしに最高のボーカル・パフォーマンスだ。

1位

「Little Red Corvette (Special Dance Remix 12 inch)」

(収録:『1999 Super Deluxe Edition』2019年 / 録音:1982年5月20日、1983年1月7日)

これは、スライ・ストーンが全速力で駆けるプリンスにバトンを渡した瞬間だ。スライは1971年の『暴動(Theres a Riot Goin On)』でリミックスの手法とDIYの美学を編み出し、プリンスはそのコンセプトをさらなる高みへと引き上げた。

かつての僕は、「Little Red Corvette」を単なるラジオ向けのヒット曲の一つだと思っていた。だがある夜、この曲を耳にしたとき、何かが違うと感じた。ドラムの音はより大きく、追加されたキックドラムはより重く響き、曲全体が……よりブラックに感じられた。その謎を解き明かすのに、僕は10年を要した。

このリミックスでプリンスが示しているのは、音楽的なコード・スイッチングの模範だ。黒人なら誰もが、状況に応じて声のトーンや振る舞いを調整する方法を知っている。黒人ミュージシャンにとって、それはしばしば「安全なメジャーコード」を使って、硬すぎたり鋭すぎたりする部分を和らげることを意味する。そうすることで攻撃性を排除し、聴衆を味方につけるんだ。

プリンスの楽曲は常に「この若者はロックスターになる素質があるか?」という大きな問いを突きつけていた。けれど、黒人アーティストにとって、クロスオーバーして成功を収めることには罪悪感が伴う。「また自分たちの場所に戻ったとき、温かく迎え入れてもらえるだろうか?」という不安だ。彼はその解決策を持っていた。曲の中盤で、彼はベースラインを「安全な」Cシャープ・メジャーから、より「タフな」Bフラット・マイナーへとひっくり返し、このロックの名曲をダークなファンクの爆発へと変貌させてしまった。

最後の3分間(もし君が、LP盤の仕様に困惑した12歳の子供だったとしたら)、君は彼のあまりの天才ぶりにただ圧倒されるはずだ。彼はキャリアを通じてこの「仕掛け」を何度も使い、あらゆる層をターゲットにしたサバイバル・ゲームを戦いながら、僕らに向かってウィンクしてみせる。この手法は「Raspberry Beret」「U Got the Look」「1999」といった歴史的名曲でも使われることになる。大衆を喜ばせるという、本来なら疲れ果ててしまうような作業が、これほど喜ばしく感じられたことは他にない。

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From Rolling Stone US.

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