
世界に衝撃を与えたデビューから70年。メルセデス・ベンツ300SLガルウィングは、今も世界中のコレクターにとって垂涎の的であり続けている。リチャード・ヘッセルタインがその理由を体験した。
【画像】抗い難い魅力をもつ魔性の車、メルセデス・ベンツ300SLガルウィング
メルセデス・ベンツ300SLを人間にたとえれば、富と容貌を兼ね備えた憎らしいほどの伊達男だろう。自分など相手にされないと分かってはいても、どんな要求にも応じてしまうような相手。それほど抗い難い魅力を放っている。現代ですらそうなのだから、70年前にどれほどの反響を巻き起こしたか想像してみてほしい。"ガルウィング"はカーデザインにまったく新しい領域を切り開いたが、その誕生は最初から決まっていたわけではない。ベースとなったレーシングカーですら、大きな目的のための手段にすぎなかった。当時、メルセデスは戦禍からの復興の途上にあり、グランプリレースへの本格的な復帰に向けたチケットとして、限られたリソースで競技車両を開発した。これが、ある商才に長けた人物の説得によって驚くべきロードカーに変貌したのである。
生まれはコンペティションカー
W194 SL(SLは超軽量を意味する”スーパー・ライヒト:Super Leicht”の頭文字)を構想したのは、ダイムラー・ベンツのチーフエンジニア、ルドルフ・ウーレンハウトで、経営陣からのゴーサインは1951年6月に出ていた。この素晴らしき新モデルの特徴はその軽量ぶりにあり、洗練された設計による鋼管スペースフレーム・シャシーの単体重量はわずか82kgだった。空気抵抗も低く、0.25という目を疑うような抵抗係数だった(この数字は、のちに冷却のための変更で増えた)。搭載された3リッターの直列6気筒エンジンは、パワー重視とはいいがたく、約160mphのトップスピードを引き出せる程度の出力だったが、この競技プログラムは、初戦の1952年ミッレミリアから幸先のよいスタートを切った。勝利には手が届かなかったものの、SLは2位、3位、4位でフィニッシュしたのである。次に、ベルンでのスイスGPのサポートレースに出走すると、表彰台を独占した。
続いて、このメルセデスの最強マシンはル・マンに挑んだ。ワークスチームのクーペはルーフの上にエアブレーキを装着していたが、これは24時間レースのスタート前に取り外された。同様のアイデアは1955年ル・マンを走った300SLRロードスターで実戦で用いられた。
メルセデスが伝統の耐久レース、ル・マン24時間に参戦するのは22年ぶりのことで、ジャガーやフェラーリ、ランチア、カニンガムなど、並みいるワークスチームが立ちふさがった。この年のル・マンは、ピエール・ルヴェーがタルボ・ラーゴで走行を続け、世界初のソロ優勝まであと一歩に迫りながら、残り1時間でリタイア。その結果、メルセデス・ベンツが1-2フィニッシュを飾ったのである。
W194SLの短い競技キャリアは、その年のラ・カレラ・パナメリカーナで幕を閉じる。カール・クリンク/ハンス・クレンク組が平均速度103mphで勝利し、チームメートのヘルマン・ランク/アーヴィン・グルップ組が2位でフィニッシュした。出走4回で3勝。SLは見事に任務を果たしたのである。物語はここで終わってもおかしくなかったのだが、そうならなかったのは、メルセデスや欧州車を輸入していたアメリカ東海岸の有力者、マックス・ホフマンがいたからだ。ホフマンは、洗練されたロードバージョンを造れば売れる市場があるとメルセデスに訴えた。1000台買い取ることを保証したという説もあるが、この台数はもっと少なかったともいわれている。ホフマンの本当の狙いはもっと手頃なスポーツカーである190SLで、そのための客寄せになるという理由もあったようだ。
ロードカーへ仕立て直す
ホフマンがいなければ”ガルウィング”は生まれなかった。このオーストリアはウィーン出身の大物は、すでに1953年にアメリカのモーターショーでレーシングカーのSLを展示するよう手配済みで、市場の関心の高さを見極めていたのである。ただし、1954年2月に、ニューヨークの第7連隊訓練棟で開催された国際モータースポーツショーで300SLが発表されたとき、プロダクションバージョンはまだ産みの苦しみのさなかにあった。ショーカーの外観は、裸のシャシーからたった3カ月でまとめ上げた暫定的なものだった。それでも、飾り気のないレーシングカーは均整の取れた姿に生まれ変わっていた。楕円形のエアインテークはもっと幅の広いグリルに変わり、フロントのホイールアーチ後方には菱形の開口部が設けられて、ボンネット下の圧力を抑える働きをした。これにはスピード感を強調する効果もあった。
変更点はこれだけに留まらない。ヘッドライトは位置が上がって前方に突き出し、サイドボディの輪郭はより明確になって、ホイールアーチの上には”細長い槍”の形をしたパーツが加わった。その後もデザインは短期間のうちにさらに洗練された。ヴァルター・ヘッカーの下、この眩いばかりのラインのほとんどを生み出したのは、フリードリッヒ・ガイガーだった。バンパーやクロームの装飾が加わったことで、抵抗係数は0.425と大幅に増加したが、レーシングカーのDNAはほかの部分に色濃く残っていた。シャシーの大半は、細い鋼管を格子状に組んだ既存のものを引き継ぎ、そこに少し手を加えて、量産モデルに適したフレームやマウントが追加された。
常識に反して、ロードカーの300SLは、ベースとなったレーシングカーよりパワーアップしていた。かつて航空機用の直噴エンジンで世界をリードしたダイムラー・ベンツは、同じ奇跡をロードカーで実現してみせたのだ。ガルウィングは、市販車として世界で初めて直噴エンジンを搭載したのである。2966ccの OHC直列 6気筒エンジンは、240bhp/6100rpmの最高出力と30.0kgm/4800rpmの最大トルクを発揮。オールシンクロメッシュの4段ギアボックスとZF製リミテッドスリップ・ディファレンシャルを擁して、最高速度は実際に217km/hに達し、0-60mph加速は7.7秒を誇った。もっと高性能のチューニングや、”競技用”と冠したオプションもいくつかあったが、最も標準的な仕様のガルウィングでさえ、匹敵するものは当時ほとんど存在しなかった。
実際にそこまでのスピードを出すことは滅多になかったはずだが、それでよかったのだろう。何しろ、アルミニウム製のフィンを備える巨大なドラムブレーキを装備してはいたが、それでは性能不足だったからだ(この頃のモデルはたいていそうだった)。その上、ハンドリングにも難があった。スイング式のハーフアクスルは、リアのロールセンターが高くなるなど、様々な問題を引き起こした。オプションでスプリングとダンパーのレートを上げればホイールトラベルを縮小できたが、それでも熟練のドライバーにとってさえ理想的とはいえなかった。300SLのオーナーの多くは熟練のドライバーではなかったから、高速走行中に回避行動を取れば、たいてい裏目に出た。たとえもっと低い速度でも、ブレーキングとコーナリングを区別できないようなドライバーは、手痛いお仕置きを受けることとなった。
とはいえ、300SLに精通したドライバーなら、激しい走りも可能だった。その証拠に、1955年のミッレミリアでジョン・フィッチが5位でフィニッシュしているし、様々なラリーでも好成績を収めている。ガルウィングは、その初期に、手に負えないという悪評が染みついてしまい、それを払拭できなかったのだ。生産は 1956年に終了し、それまでに1400台が製造された。そのうち29台は、競技使用を念頭にしたスペシャルオーダーだった。これらは総アルミニウム製ボディで、総重量が80kg軽かった(標準仕様の乾燥重量は1160kg)。ダイムラー・ベンツはグラスファイバー製ボディも試した。課題を物語るように、クーペに次いで登場した300SLロードスターはリアアクスルのピボット位置が下がり、1961年からはディスクブレーキを装備した。教訓はきちんと生かされたのである。
・・・後編に続く。
編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curatorsLabo.) 原文翻訳:木下恵
Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curatorsLabo.) Translation:Megumi KINOSHITA
Words:Richard Heseltine Photography:Luis Duarte
THANKS TO owner Ricardo Sáragga and Adelino Dinis.