Clap Your Hands Say Yeahがデビューアルバム20周年に明かす真実、初来日の思い出

それは2000年代半ばのこと、ひと足先にザ・ストロークスやヤー・ヤー・ヤーズが開いた突破口をくぐって、ニューヨーク周辺から続々イキのいいインディ・バンドが出現し、世界中の音楽ファンが耳をそばだてた時期があった。フィラデルフィア出身のシンガー・ソングライター兼ギタリスト、アレック・オウンスワースが率いるクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーもまさにその1組であり、彼らが2005年に送り出したデビュー作『Clap Your Hands Say Yeah(以下CYHSY)』は当時手放しの称賛を浴びてバンドにブレイクをもたらした、アイコニックなアートロック・アルバムだ。

その後、当時在籍していたアレック以外のメンバーはバンドを離れてしまったが、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーはマイペースに6枚のアルバムを発表。新作の制作も進んでいる今年アルバム・デビュー20周年を迎えたことを機に、まずは5月に『CYHSY』が新装バージョンのアナログ盤で再発され、バンドはアルバム全編を再現するツアーを開始。すでに北米とヨーロッパで20公演余りを済ませ、まもなく8年ぶりに日本にやって来る。そこで、はや7度目となる今回の来日で大阪(10月31日)と東京(11月1日)で公演を予定しているアレックに改めて、同作のメイキング、当時の彼の心境、初来日の思い出、様々なアングルから20年前を振り返ってもらった。

実はインタビューの数日前に、長く病気を患っていたという母を亡くしたばかりだったアレック。お悔やみの言葉を伝えると「ありがとう。まだ辛いけど日々徐々に元気を取り戻しているよ」と言って笑顔を見せてくれた彼との会話は、まずはその母を巡る逸話からスタートした。

『CYHSY』最大のヒット曲「The Skin Of My Yellow Country Teeth」のMV

完璧主義者がめざした完璧なデビュー作

―『CYHSY』は時代を代表する名盤と目されるアルバムですが、当初出来に満足できなくてリリースを躊躇していたあなたを説得し、発表するように促したのはお母さんだったそうですね。

アレック:その通り。母は僕にとって最大のサポーターであり、いつも無条件に応援し、励ましてくれたんだ。サッカーをやっていた子ども時代もそうだった。でも『CYHSY』に関しては、もう少しいい作品にできるんじゃないかと思っていて……というか、どのアルバムについても僕はそう感じるんだ(笑)。だから毎回人々の反応に驚かされる。それがポジティブだろうとネガティブだろうと僕には理解できなくて、『CYHSY』を気に入ってくれた人がいたことにビックリしたんだ。個人的に、大勢の人が好きなものにはたいてい興味が湧かないから(笑)。

―具体的に「ここを修正したい」とか「この曲を録り直したい」と考えていたんですか?

アレック:そういうわけでもないんだ。当時僕は25歳か26歳だったはずだけど、あのアルバムに、ブライアン・イーノとヴェルヴェット・アンダーグラウンド/ルー・リードとトーキング・ヘッズの最高な部分を詰め込みたいという野望があった。それってまず不可能だろう?(笑)。20年が経った今、全編をライブでプレイしていると、いかに素晴らしいアルバムなのか僕にも納得できて、ひとつの大きな功績を残したと思っているけどね。要するに自分に厳し過ぎたんだよ。こうしてアニバーサリー・ツアーができるなんて光栄なことだし。

―自分は完璧主義者だと思いますか?

アレック:そうだね。そのせいで何度もトラブルに直面してきた。実際僕のパソコンには膨大な量の未発表の音源のストックがあってね。数年後に聴き直してみると、「あれ、結構いい曲じゃん。なんでリリースしなかったんだろう?」と思ったりするんだ(笑)。

―そのアニバーサリー・ツアーですが、2015年の10周年の時も企画しましたよね。あれからさらに10年を経て、アルバムの聴こえ方は変わりましたか?

アレック:うん。不思議なことではあるけどね。そもそもこういうツアーは、アルバムに思い入れを持つ人が巷には大勢いるわけだから、オーディエンスにとって楽しい経験になるはず。と同時に僕自身にとっても、10年ごとに立ち返るというのは自分の人生におけるマイルストーンの確認みたいな意味がある。人間として変化するに従って、アルバムへの感じ方も変わるからね。実際この10年間に僕の身には色んなことが起きたし、まさにそういった出来事がその時々のアルバムの印象を色付ける。例えば最近デヴィッド・バーンのライブを観に行ったんだけど、トーキング・ヘッズの曲をプレイしていても、当然ながらあれらの曲を作った彼と今の彼は違う。デヴィッドに訊けば恐らく「曲の捉え方が変わった」と答えるだろう。でも現在の彼が昔の作品とコネクトしている姿を見守るのもすごくクールでね。そこには奇妙な熱意が感じられる。ある種のプライドというか。

―じゃあ20年後の今『CYHSY』の収録曲を綴った若者、つまり若い頃のあなた自身にコネクションを感じますか?

アレック:感じるよ。あの若者は、その後もほとんど変わっていないと思う。良くも悪くも(笑)。あれらの曲を歌っていると、「これって最近起きたことにも重なるよな」と感じたりするんだ。

―あなたの歌詞は難解というか、直接的な表現を避ける不可解な部分が多かったんですけど、自分の人生においてどんな時期を切り取ったアルバムなんでしょう?

アレック:多くの曲は、ハートブレイクを体験したあとに綴られたものだった。自分に大きな影響を及ぼし得る出来事を経て、僕が人生においてどんな地点に立っているのか確認していたんだ。他者との関係って、人生を構築する上で鍵になる要素だからね。そんなわけで僕は自分を理解しようと試みていて、今に至るまでその作業は続いているんだよ。まあ、僕の歌詞をほかの人たちが不可解だと感じるのも不思議じゃないけど、僕にとってはすごく分かりやすいんだ。僕が思うに、書き手が誰であろうと曲や詩には、どこかに必ず1~2行、読んだ瞬間にはっきりと物事がクリアになる部分がある。「なるほど、そういうことか!」と腑に落ちるものなんだよ。

ユニークな歌声とサウンドを見つけるまで

―巷ではしばしば、ミュージシャンにとってはそれまでの全人生が1stアルバムへの準備期間だと言われたりもします。逆に2ndは大急ぎで作らなければならなくて、それが大きなプレッシャーになり得るのだと。あなたもそんな風に感じましたか?

アレック:そうでもなかったな。もちろん『CYHSY』にはかなりたくさん言いたいことを詰め込んでいる。でも僕の場合、『CYHSY』を発表する前に2ndアルバム『Some Loud Thunder』(2007年)の収録曲をほぼ書き終えていたんだ。表題曲や「Satan Said Dance」とか、1stで起きたことへのリアクションに根差した曲は、もっとあとで書いたけどね。とにかく僕は『Some Loud Thunder』を作った時もプレッシャーは感じなかった。しかもかなり思い切って冒険をして、そのせいで多くのファンを失ったところがある(笑)。それは半ば狙っていたことで、ナルシシズムが健全なレベルに達していないらしく、僕は人に注目されるのが苦手なんだ。でも音楽業界においては人目を引くことこそ重要なポイントであり、本質であり、僕は妥協点を見いだせずにいた。自分のヒーローたちの中にはそれができた人もいるんだけどね。例えばデヴィッド・ボウイは、スーパースターだったにもかかわらず巧みに身を処していた。トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンも然り。妥協することなく素晴らしい作品を作り続けて、ちゃんとキャリアを成立させたわけだから。

―そもそもどんな1stアルバムにしたかったのか、あなたの中に具体的な像はあったんですか?

アレック:答えはイエスでもありノーでもある。例えば、僕は子どもの頃からバッキング・ボーカルを歌うのが好きでね。両親が聞いていた50~60年代の曲に合わせて、敢えてバッキング・ボーカルを歌っていた。そのせいでT・レックスのバッキング・シンガーだったフロー&エディ(※ハワード・ケイランとマーク・ヴォルマン)だったり、デヴィッド・ボウイの曲の独特のコーラスや、トーキング・ヘッズの『Remain in Light』にブライアン・イーノが添えた声にすごく惹かれたんだ。そういう要素もアルバムに反映させたかったし、他方でザ・ローリング・ストーンズの曲に顕著なドラムとタンバリンの重ね方とか、本当にたくさんの異なるアーティストからアイデアを引用していた。それが僕の音楽作りへのアプローチなんだ。もちろんそれ以前に良質の曲を用意しなくちゃいけないわけだけど(笑)、一旦曲が用意できたら、自分の頭の中で鳴っているサウンド像にフィットするまでコツコツ作業を続ける必要がある。「ここの部分のベースはあと20%左側にパンさせなければ」とか。それが厄介なところで、自分の思い通りの音じゃないと僕は満足できない。レストランに行く時も、壁の色に違和感を抱いたり照明が明るすぎるように感じたら、「もう無理」と思ってしまうんだ。

―それは困った話ですね(笑)。

アレック:自分に問題があることは自覚しているから、心配しないでいいよ! こんなにたくさんのハートブレイクのアルバムを作ってきた理由も、まさにそこにある(笑)。

2005年9月、NYで撮影(Photo by Pascal Perich/Contour by Getty Images)

―なるほど。ではあなたのソロ・プロジェクトに近いバンドにおいて、当時在籍していたほかの4人のメンバー──ショーン・グリーンハル(Dr)、リー(Gt, Key)&タイラー(Ba)・サージェント、ロブ・ガーティン(Gt, Key)は、本作にどんな貢献をしてくれたと思いますか?

アレック:ロブに関してはアルバムが完成に近づいてから加わったから、彼が鳴らした音はそれほど含まれていないけど、みんな本当に有能なミュージシャンだったよ。僕はまずこれらの曲のデモを、独りでドラムマシーンやシンセを使ってレコーディングし、その後、バンドとしてうまく機能するのか分からないままに、以前から知っていた彼らに参加してもらったんだ。初めて全員でリハーサルをした時、「Over and Over Again (Lost and Found)」や「Details of War」を試しにプレイしてみたらすごくうまく行ってね。確かな手応えを得た。そこで、ほかの多くの曲についても同じように自分だけで出来る限り形にして、それからバンドに足りない部分を補ってもらって完成させたんだ。

例えば「Upon This Tidal Wave of Young Blood」はドラムマシーンとシンセとベースとアコギで原型を作り、構成要素を揃えてある程度のガイドラインを提示したんだけど、ほかのメンバーがそれぞれに自分らしさをプラスしてくれた。デモを真似てプレイしたとしても、必ずその人の個性が反映される。タイラーのベースは僕のデモのそれとは全く違うし、最大限に彼らの解釈に任せたんだよ。

「Heavy Metal」2007年のライブ映像

―そういったセッションについて特に印象に残っていることはありますか?

アレック:どうだろうね……僕らはロードアイランド州のプロビデンスにあるマシーンズ・ウィズ・マグネッツというスタジオでレコーディングを開始したんだけど……こうして改めて振り返ってみると、苦労続きのレコーディングだったな(笑)。悪戦苦闘した気がする。実は当初は、全編ライブでレコーディングするつもりだったんだ。それで試しに「In This Home on Ice」を30回くらいプレイしてみたんだけど、ドラマーになってまだ日が浅かったショーンにはライブで完璧に叩くのは容易なことじゃなくて、毎回幾つかミスがあった。だからその時点でライブ・レコーディングはさっさと諦めたよ(笑)。ショーンは最終的には完璧に叩けるようになったけどね。あの日のことはよく覚えている。あと、僕が初めてスタジオで歌った曲は「Over and Over Again (Lost and Found)」だったと記憶していて、ほかのメンバーが僕以上に熱くなってくれて、大いにポジティビティを感じたっけ。すでに長い間これらの曲と向き合ってきた僕と違って、彼らには新鮮に響いたんだろうね。熱意をもって取り組んでくれたし、客観的に曲を聴いて色々判断してくれた。その点にもすごく感謝しているよ。

―ちなみに、テレヴィジョンのトム・ヴァーレインやデヴィッド・バーンを思わせるあなたの独特のボーカル・スタイルは当時すでに確立されていたんですか?

アレック:そうだね。18歳か19歳の時にシンガーを志して音楽活動を始めた時からこのスタイルだった。当時の僕はワイヤーやパティ・スミスやテレヴィジョンの曲をカバーしていたんだけど、友人たちに「面白い歌声だね」と指摘されてショックだったな(笑)。でもね、歌の面でも母が僕を応援してくれたんだ。身近にポジティビティを与えてくれる人がいるというのは、すごく重要だと思うよ。世の中には自分の才能に気付いていない人たちが大勢いる。きっと周囲に肩を押してくれる人がいないんだろう。

―当時のクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーについて特筆すべき点と言えば、米国内では完全にインディペンデントな形でアルバムをリリースしたことです。レーベルと契約しないだけでなく、メンバーが自らオーダーをとって、CDを梱包し、ショップに届けるという作業も行なっていたわけですが、若いバンドにそういう経験を勧めますか?

アレック:う~ん、難しいところだね。実は僕らも当時、考え得る限りあらゆるレーベルから契約のオファーを受けたんだ。でも僕はノーと言った。決して敵意はなかったし、レーベルが担っている役割もすごく重要だと認識していたけど、今のところはインディペンデントでやってみるべきだと僕は感じたんだよ。とは言え、辛い旅に出る覚悟がない限り、ほかのバンドには勧められないな(笑)。どんな形であれ誰かにヘルプしてもらったほうが楽だし、今では僕もSecretly CanadianやDominoといったレーベルの手を借りているからね。もしインディペンデントで頑張るつもりなら、何かすごくユニークなウリがあるとか、他のアーティストから差別化できる要素を備えている必要がある。クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーの場合、それは僕のボーカルだったのかもしれない。でも最近は、「これは新鮮だな!」と感じさせてくれるアーティストにはあまり出会えないんだよね。ギースのキャメロン・ウィンターのソロ・アルバム『Heavy Metal』なんかはすごく良かったけど。

―確かに『CYHSY』はユニークでしたよね。さっきあなたが触れていたように、断片的に色んなインスピレーションが窺えるけど影響源を特定できない独特のミクスチャーで、同時にメロディックで人懐っこくもあるという。

アレック:僕としては自分のヒーローたちからの影響を反映させていたんだけど、それが方々に散らばっていて、直接的には引用しなかった。僕はジャズもクラシックも勉強して本当にたくさんの音楽を聴いてきたし、それら全てに何らかの影響を受けてあのアルバムを作ったんだ。あとはもう、自分を信じるしかない(笑)。

2005年と初来日の記憶

―本作が登場した2005年と言えば、ほかにもザ・ナショナルの『Alligator』やLCDサウンドシステムのセルフタイトルの1stといった名盤が続々送り出され、ニューヨーク発のインディロックが脚光を浴びていた時期ですよね。その只中にいて、自分が大きなムーブメントの一部なんだという意識はありましたか?

アレック:いいや(笑)。もちろん彼らを知ってはいて、いい作品が生まれてはいたけどね。僕らはキャリア初のツアーでザ・ナショナルの前座を務めたし、ジェイムス・マーフィーやTVオン・ザ・レディオのメンバーもよく見かけて、接する機会はあった。だから、僕らのバンドが遠巻きな形であれシーンの一翼を担っていたと目されているのだとしたら、それはうれしいことではあるんだけど、同時に、特定のシーンへの親近感はない。あの頃はほかにもいいアーティストが大勢いて、ちゃんと評価されずに終わったケースが少なくないしね。

―バンドを巡る状況が明らかに変わったと最初に認識した瞬間って、覚えていますか?

アレック:うん。そもそも僕は、それまで長年フィラデルフィアでソロでステージに立っていたし、バンドを結成してからも、アルバム発表まで1年半くらい精力的にニューヨーク周辺でライブを重ねて、その間オーディエンスは着々と増えていた。だからある日愕然としたってことはないんだけど、やっぱり海外から注目を集めるようになったことは大きなインパクトがあった。例えば、まさか日本でライブがやれるなんて夢にも思っていなかったから、現在に至るまで感謝の気持ちで一杯だよ。というか、僕が思うに、自分がいつか成功するんじゃないかと期待している人がいるなら、その人は恐らくほかのアーティストの模倣をしているか、レコード会社の役員室での会議から生まれたってケースなんじゃないかな。期待感に依存するべきではないし、オリジナリティを無効化してしまうように感じるんだ。

―その初来日公演は2006年1月でした。

アレック:すごく鮮明な記憶があるよ。当時の僕にとって大都市はすごく息苦しい場所で、東京の人口を知って「うわ、やばい」って思ったんだ(笑)。きっと素敵な町なんだろうけど、不安が募った。ところが実際に来てみると予想をあっさり裏切られたよ。世界には、足を踏み入れるなり「ここは僕の第二の故郷だ」と感じられる町が幾つかあって、東京はそのひとつだね。あの時の僕は他のメンバーとは別にフィラデルフィアから日本に向かって、空港からタクシーで渋谷のホテルまで行った。で、ロブと鉢合わせて一緒に食事をすることにしたんだ。そしてたまたま入ったレストランというのが全く英語を喋らないシェフが独りで切り盛りしている小さな店で、メニューは日本語で壁に書かれていて、僕らのほかに女性のお客さんがふたりいた。それで彼女たちの食べているものを指さして、同じものをどうにかオーダーしたんだよ(笑)。すると、出てきた料理が本当に美味しくてね。あの食事が素晴らしい旅の序章になったよ。

―今回の来日では20年前とは異なるツアー・バンドが同行するわけですが、東京公演の会場は初来日の時と同じ渋谷クアトロです。どんなショウになりそうでしょう?

アレック:まず、20年が経ったにも関わらず、エネルギーやアグレッションのレベルはほとんど変わっていないんだ。ただ昔よりも感情をコントロールできているよ(笑)。確か初めての東京公演の音源がどこかに残っているはずなんだけど、あの頃の自分はやたらワイルドだったなって思う。それはそれでクールなことだけど、もしかしたら観る人を不安にさせたのかもしれないね(笑)。とにかくエネルギーを維持しつつも落ち着きが加わった気がするし、もうひとつ言えるのは、恐らく若い頃よりも僕はいいシンガーかつプレイヤーになったということじゃないかな。

Photo by Greg Kohs

―あなたが2021年発表したクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーの最新作『New Fragility』には、まさに本作を発表した頃を回想する「CYHSY, 2005」なる曲がありましたよね。この曲を聞く限り、あなたはツアーで長期間故郷から遠く離れて過ごさなければならなかったことに大きな葛藤を抱いていたようですが、こんな風に最近になって2005年を振り返ろうと思ったのはなぜでしょう?

アレック:「CYHSY, 2005」を書いた時の僕は心の平安を探し求めていて、ふと、当時の経験を振り返ってみようと思ったんだ。さっきも触れたように、人に注目されることとツアーに伴う頻繁な移動は、僕のパーソナリティと相容れないところがある。特にバンドが最初に注目を浴びて身辺が騒がしくなった時は許容範囲を超えてしまって、全般的に薄っぺらいところも好きじゃなかった。音楽業界にはたくさんの表層的な要素が伴うし、僕はあまりハッピーに受け止められなくて、人生で初めて抗うつ薬を服用したりもしたよ(笑)。もうやめたけどね。で、「CYHSY, 2005」では大きな注目を浴びることを許容できなかったのはなぜなのか、自分の中に理由を探して理解しようと試みたんだ。家に閉じこもっていれば解決できたと考えるのは安易なんだろうけど!

―今はツアーを楽しめていますか?

アレック:うん。あれからペースを緩めたし、肉体的には消耗するけど、やっぱり知らない場所を訪ねて、人と出会い、カルチャーや食を知ることは素晴らしい。子どもの時から好きだったよ。でもとにかくあの頃は、「君は最高だ」などと言われるのがイヤで、「ほっといてくれ!」みたいな感じだったんだ(笑)。

―「もっと素直に楽しめばよかった」と悔やむ気持ちもありますか?

アレック:僕なりにすごく楽しんではいたんだよ。たくさんのいい思い出がある。ただ、もう少しのんびり構えていたら良かったのにって思うことはある。僕の場合、それは人生のあらゆる面に該当することであって、そういうパーソナリティだとしか言いようがない。おかげで曲作りのネタには事欠かないよ!(笑)。

2025年、『CYHSY』再現ツアーのライブ映像

CLAP YOUR HANDS SAY YEAH

Japan Tour 2025 ― 20th Anniversary of the Debut Album ―

2025年10月31日(金) 大阪・LIVE HOUSE ANIMA

2025年11月1日(土) 東京・渋谷 CLUB QUATTRO

チケット:前売 ¥8,000(ドリンク代別)

詳細:https://smash-jpn.com/live/?id=4381

クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー

『Clap Your Hands Say Yeah (20th Anniversary Edition)』

発売中

詳細:https://bignothing.net/cyhsy.html