連載:アナログ時代のクルマたち|Vol. 57 ロータスMk.10

1953年から55年にかけて、イギリスでは2リッタークラスのスポーツレーシングが盛んに行われていた。トップコンデンターとして、クーパー、トジェイロ、さらにリスターなどがいて、いずれもブリストル製のエンジンを搭載していた。ご存知の通りブリストル製のエンジンは、戦前のBMW製ユニットに過ぎず、1991cc(66mmx96mm)の6気筒エンジンはオーバーヘッドバルブの機構を持っていた。通常はダウンドラフトタイプのソレックスキャブレターが3つ装備された。このエンジンは入手しやすいながらも高価であった。性能的には142bhpを誇っていたものである。

【画像】数奇な運命を辿った、ロータスMk.10(写真5点)

コリン・チャップマンにとって、このカテゴリーには興味がなかったのだが、当時ワークスのMk.6をドライブしていたブライトンの革職人、マイク・アンソニーがとりわけこのクラスの興味を示し、大事な顧客のために既に1954年からMG用の1.5リッターユニットを搭載したMk.8をベースに、より大きくブロックの深いブリストルエンジンを搭載すべく改造したのが、Mk.10である。大型のエンジンを脱着するためにスペースフレームをモディファイし、スペースフレームの2か所のメンバーを取り外し可能とすることで、この問題を解決した。

Mk.10ができる前にもう1台Mk.9が存在し、それはコベントリークライマックス製の1098ccユニットを搭載したモデルで、コリン・チャップマン自らドライブしてル・マン24時間にも出場したモデルであった。ル・マンではチャップマンがコースアウトして、復帰する際にマーシャルの許可なくスタートしたことによって、失格の憂き目にあっている。

Mk.8はその生産台数は極めて少なく、僅か7台が作られたに過ぎない。一方のMk.9は主としてコベントリークライマックスを想定して作られたためか、24台が生産されたとされている。

そして、基本的にMk.8をベースとしたMk.10であるが、ほとんどのモデルはブリストル製の2リッター直6ユニットを搭載していた。理由はライバルたちと同様に、入手がしやすかったからのようである。流麗なボディもほぼMk.8に準じているが、6気筒搭載を考慮して、フロントに大きなふくらみを持っていることで見分けることができる。空力ボディのデザインは、デ・ハビランド社で航空機のエンジニアとして働き、後にキース・ダックワースと共に、あのコスワース・エンジニアリングを設立したマイク・コスティンである。

このMk.10の生産台数も極めて少なく、7台しか生産されていない。そしてこの7台のうち、他とは顕著に異なるモデルが、ロッソビアンコ博物館に収蔵されていたシャシーナンバーMk8/108である。この車はイギリスのエンスージァスティックなジェントルマンドライバー、マイク・ヤングに新車で販売されたものだ。多くがブリストルエンジンを所望する中、彼は独自にコンノート製2リッター4気筒ユニットを搭載するのである。このコンノート製ユニットは元々リーフランシス社製のエンジンをベースに、コンノートが2リッターF2用のエンジンとして開発したもので、稀少且つ非常に高価なものだったという。ヤングの入手したコンノートエンジンは、シリアル番号C16というものであった。

余談ながらコンノート・エンジニアリングは、1950年にロドニー・クラークとマイク・オリバーによって設立されたイギリスの自動車会社で、レース用のハイパフォーマンスエンジンを作る傍ら、自らもF2やF1を製作してレースに参戦していた会社である。

さて、マイク・ヤングの元にやってきたロータスMk.10は、1955年9月8日に、新車として公道登録され、NBA806というレジストレーションナンバーが付けられた。マイクはこの車で同年のタルガフローリオ参戦を決断。同じくイギリス人で、当時F2のコンストラクター兼ドライバーとして活躍していたジェフ・リチャードソンを、コ・ドライバーとして抜擢。彼らはダンケルクとナポリフェリーを経由して、シチリア島まで自走してレースに参戦するという、途方もない長距離の移動を敢行したのである。このため、ロータスMk.10の中でも唯一、ヘッドライトをはじめとした灯火類をはじめから装備した車両で、これがエンジンと共にこの車を特徴づけたもうひとつのポイントであった。

勇躍ゼッケン80をつけて出走したマイクのロータスMk.10であったが、残念なことにピッコロマドニエを1周することなくレースを終えてしまった。最初は油圧の低下、次いでドライブミスで修復不能なほどのダメージをサスペンションに負ったためで、コ・ドライバーのジェフ・リチャードソンは、一度もステアリングを握ることなくリタイアとなった。

レース出場当時赤く塗られたボディのこの車はマイクの手から離れ、1965年には高価といわれたコンノートのエンジンを搭載したまま、295ポンドという価格で売りに出された。これを購入したのはF.シムズなる人物。その後レストアラーとして著名なバリー・シンプソンがこの車を入手して、ヒストリックレース出場を目的として、手のかかるコンノートエンジンからブリストルの2リッターユニットに換装した。その後さらに複数のオーナーを転々とした後、ロッソビアンコ博物館のピーター・カウスが入手することになる。

まさに数奇な運命を辿ったロータスMk.10である。

文:中村孝仁 写真:T. Etoh