
パリの街並みに、ひときわ美しい黒のクラシックサルーンが佇む。1960年製のジャガーMkII。丁寧に手入れされたその車体は艶やかだが、過剰な光沢はない。年月を経た塗装が、控えめながら深い味わいをたたえ、現オーナーのパスカル・ゲラン氏(Pascal Guerin)がこの車に向き合ってきた時間の質を物語っている。
【画像】オーナーの愛情が随所に感じられる、丁寧に手入れされたジャガーMkII(写真22点)
彼は元々、機械とともに生きてきた人だ。若き日、整備士としてルヴァロワのジャガーのガレージで見習いを始めた。「最初に働いたのがジャガーだったんだ。そのあと、アルファロメオ、最後はメルセデスに移った。全部で4年ぐらい整備士をやったよ」。手を汚し、耳でエンジン音を聴き分け、体で機械を理解していた日々。その経験は、いま彼がクラシックカーと向き合うとき、何よりの財産になっている。
その後、彼は別の道へと進む。パリ7区、リュ・クレール通りで料理器具とナイフを扱う店を営みながら、私生活では長年クラシックカーを楽しみ続けてきた。「17歳のときに最初の旧車を手に入れたんだ。まだ免許も持っていなかったけどね」。最初の1台は1953年製のシトロエン・トラクシオン・アヴァン。そこからローバー2000TC、シムカ1300、1960年製のシムカ・アロンド・プラン・シエル、そして1957年のルノー4CVへと乗り継いでいく。「ルノーの4CVはね、日本でもライセンス生産されてたよ。あれ、なかなか良かった」
ジャガーMkIIとの出会いは2021年。パリ市内の専門店で販売されていた1台に一目惚れした。2006年にレストアされ、2008年にはアメリカのルート66(シカゴからロサンゼルスまで)を完走した記録を持っていた。「少し整備をしただけで、すぐによく走るようになった。ちゃんと走る、ちゃんと止まる。昔の車だけど、そこはしっかりしてるよ」
楕円形のグリル、丸みを帯びたフェンダー、そして贅沢なウッドとレザーに囲まれた室内。そのエレガントな佇まいは、半世紀以上を経た今も色あせない。パフォーマンスと上質な装いを両立させたこのモデルは、当時のサルーンの概念を覆した存在だった。スポーツカーのような走りと、貴族的な装い。その両立こそが、Jaguar MkIIの最大の魅力である。
パスカル氏の愛車は、シリーズ中でも特に評価の高い「3.8リッター」モデルだ。
この3.8L直列6気筒エンジンは、同時期のXK150やEタイプにも搭載された高性能ユニット。220馬力を発揮し、0-100km/h加速は約8.5秒。最高速は200km/hに迫る。性能だけを見れば、当時のスポーツカーと肩を並べる内容だ。その実力はレースの現場でも証明され、BTCC(英国ツーリングカー選手権)ではスターリング・モスやグラハム・ヒルがステアリングを握り、華々しい戦果を挙げた。
だがジャガーは、その力を声高に誇示することはなかった。あくまで紳士的なサルーンの姿を保ちながら、その内に猛獣のような走りを秘めていた。
リアに控えめに刻まれた「3.8」のバッジ。それは、見る者にだけ語りかける、隠れた牙の証でもある。
とはいえ、パスカル氏は数値や戦績にはさほど頓着しない。「これはね、気を遣わずに乗れる車なんだ。クラシックカーって特別な作法が必要だったりするけど、このMkIIはそういうのがない。普通にエンジンをかけて、普通に走れる。それが何よりいい」
その感覚は、彼の奥様ルイーザさんにも共有されている。「この車、どう思いますか?」と尋ねると、彼女は即座に「大好きよ!」と笑顔で答えてくれた。ふたりでノルマンディ地方を走るのが、何よりの休日の楽しみなのだという。パスカル氏はまた、ジャガー・オーナーズ・クラブのミーティングにも頻繁に参加し、同好の士と愛車について語り合っている。
決してショールームに飾るためではなく、風と道を感じるために選ばれたMkII。小さな頃に手にしたミニカーが、大人になったパスカル氏の現実となり、今も静かに、しかし確かにその夢を走らせ続けている。
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI