2番目に注目されたのは20時33分で、注目度74.0%。蔦重(横浜流星)と朋誠堂喜三二のゴールデンコンビ誕生に、視聴者の注目が集まったと考えられる。

俄祭りの熱狂をそのまま絵本にするという蔦重の斬新なアイデアは、人気作家・朋誠堂喜三二こと平沢常富の序文を得ることで、完成度と話題性をさらに高めた。常富は青本を出すのはうちだけにしてほしいと鱗形屋から頼まれていたが、絵本の序文ならその義理にも反しない。蔦重の提案の妙と人の口説き方が光る場面でもあった。

SNSでは、「喜三二さんの遊び心のあるキャラ、いいなあ。蔦重はほんとに人たらしだね」「喜三二さんが序文を読み上げる場面、めっちゃ心にしみた」「平沢様、義理堅いいい人だよな。だからこそ吉原でも慕われるんだろうけど」と、常富の人柄を称賛するコメントが多くアップされている。

また、朋誠堂喜三二の正体が明かされたことで、これまでSNSを騒がせた「オーミーを探せ」の答え合わせも行われた。一瞬だけ映ったシーンも多く、かなりの高難易度の回もあった。常富が松葉屋で平賀源内にお礼をしたのが1773(安永2)年なので、蔦重は常富とかれこれ4年前からニアミスを繰り返していたことになる。

『明月余情』は、吉原の「俄祭り」を題材に、踊る芸人の姿や芝居に熱狂する人々の様子が全3編に渡っていきいきと描かれている。墨摺りだったので低価格で、庶民も気軽に購入ができた。『青楼美人合姿鏡』の反省が生かされている。

平沢常富は、出羽・久保田藩(現在の秋田県)の定府藩士で江戸留守居役を務めていた。定府とは、参勤交代を行わずに江戸に定住する者のこと。ちなみに久保田藩は藩主も定府だった。江戸留守居役は、現在でいう外交官のような役割。江戸の屋敷の管理や、幕府の情報収集、他の藩の江戸留守居役と情報交換などを行う重要な役割を担っていた。常富は情報収集の一環で若いころから吉原に通い、やがて「宝暦の色男」と呼ばれるようになる。

平沢常富・朋誠堂喜三二を演じる尾美としのりは、ホリプロ・ブッキング・エージェンシーに所属する東京都出身の59歳。幼少のころから子役としてTVドラマや映画に出演してきた。大河ドラマは1979年『草燃える』、01年『北条時宗』、12年『平清盛』、17年『おんな城主直虎』、20年『麒麟がくる』に続いて6度目の出演となる。蔦重にとって最高の協力者といわれる常富の今後の活躍に目が離せない。

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「二大悪所」で育った2人が強いシンパシー

このシーンは、富本節の直伝で『雛形若菜初模様』のリベンジを果たそうとする蔦重が、再度、孫兵衛に巻き返しを図られるのではないかとヒヤヒヤした視聴者の関心が集まったと考えられる。

孫兵衛は富本節の三味線方・名見崎徳治(中野英樹)に探りを入れ、午之助の二代目・富本豊前太夫襲名と同時に富本節の直伝本を出版しようと画策していた。ことは順調に進んでいたが、午之助の信頼をあっという間に得た蔦重にすべてを持っていかれた。

SNSでは、「プライドと銭勘定の本屋の親父たちと比べて太夫の男気が際立つね。見ていて気持ちいい」「馬面太夫の頼もしき男らしさに惚れそうです!」と、利害を超えた蔦重と午之助の関係に喝采が送られている。江戸時代には吉原と芝居町は「二大悪所」と呼ばれていた。そんな「二大悪所」で育った2人は互いに強いシンパシーを感じたのかもしれない。

午之助は11歳で父を亡くしたが、史実では父の弟子である初代富本斎宮太夫(とみもといつきだゆう)の後見のもと修を業重ね、1766(明和3)年にわずか13歳のときに中村座で『文月笹一夜・下の巻』で初舞台を迎えた。富本節は午之助の父・初代富本豊前太夫が1748(寛延元)年に、常磐津節(ときわずぶし)から分かれて興した流派。常磐津節は歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展し、時代物に長け、硬派で正統派の性格が色濃く、リズムやテンポに極端な変化を加えないのが特徴だ。

一方、富本節は常磐津節に比べて、優雅かつ派手で拍子が明確だった。劇場に向いており、品格があったため大名や富豪に好まれた。二代目富本豊前太夫の人気と活躍で、全盛期を迎えるがその後、富本節から清元節が分派され、人気を奪われるかたちで衰退していった。1983年に十一代目富本豊前太夫が亡くなり、以降その名跡も途絶えている。