最も貴重な250LM|落札価格55億円に隠されたヒストリーとは?【前編】

先の記事でも紹介したように、2月4日〜5日に開催されたRMサザビーズ主催のオークション「Paris 2025」では1964年式フェラーリ250 LMが大きな注目を集めだ。その落札額は脅威の約55億円。自動車オークションの歴史に残る落札額となったこの1台だが、一体どんなヒストリーが隠されているのだろうか?

【画像】約55億円という高価格で落札されたフェラーリ250LM(写真31点)

ルイジ・キネッティと北米レーシングチーム(NART)

アメリカにおいてフェラーリと切っても切れない名前、それがルイジ・キネッティである。イタリア生まれのキネッティは幼少期から父の工房で見習いをし、機械作業を学び、わずか14歳で資格を取得した。わずか2年後にはアルファロメオに入社し、そこで若きレーシングドライバーのエンツォ・フェラーリと出会い、長年にわたる深い絆を築くこととなる。

1930年代初頭、キネッティは自身もレーシングドライバーとしてのキャリアを歩み始め、耐久レースでその名を広めていった。彼にとって最高の舞台はル・マンであり、1932年から1953年にかけて毎年出場。アルファロメオ、タルボ、そして親友エンツォ・フェラーリが設立したフェラーリで戦った。その成績は驚異的で、1932年と1933年にはアルファロメオで優勝を果たし、1949年にはフェラーリを駆って初出場ながらフェラーリにル・マン初優勝をもたらした。この他にも、1933年と1949年のスパ24時間レースで優勝(それぞれアルファロメオとフェラーリ)、1948年と1950年のパリ12時間レースでもフェラーリを駆り勝利を収めた。また、5日間にわたり3,380kmを走るカレラ・パナメリカーナには4度参戦し、1951年には優勝、1952年には3位に入賞した(いずれもフェラーリでの出場)。

第二次世界大戦が勃発すると、キネッティはアメリカへ移住し、プラット&ホイットニーでの仕事を経て、J.S. インスキップでロールスロイスのエンジン整備に従事し、戦争の支援に貢献した。1950年初頭にはアメリカ市民権を取得し、その際の保証人を務めたのがゾーラ・アーカス=ダントフであった。レース引退後、キネッティは車の販売に注力し始め、フェラーリの北米正規輸入代理店となる。当初はニューヨーク市を拠点とし、その後コネチカット州グリニッジへ移転。エンツォ・フェラーリとの密接な関係により、キネッティは工場との直接のパイプを持つことができた。このつながりと、マラネロがキネッティに寄せた信頼のおかげで、彼のもとには他のディーラーを凌ぐ数の歴史的に重要なフェラーリのレースカーが集まることとなったのだ。

1957年、NARTの設立とその成功

1957年、キネッティはレーシングチーム「NART」(North American Racing Team)を設立。NARTは、スクーデリア・フェラーリがプロトタイプおよびGTレースでワールドチャンピオンシップポイントを獲得するための重要な戦力となった。各国のレーシングチームがフェラーリを支えたが、その中でもNARTは特に際立つ存在であった。

このチームはスポーツカー耐久レースで大成功を収め、さらにはアメリカ、カナダ、メキシコのグランプリにも参戦。マラネロから最高の車両が供給され、一流ドライバーが集まった。NARTは北米市場におけるフェラーリのプロモーションツールとしても機能し、そのレースでの成功がキネッティのディーラー事業にも大きく貢献したのであった。

NARTは1957年のル・マン24時間レースでデビューを果たし、その後約四半世紀にわたる歴史の中で、ル・マンに約70台のフェラーリをエントリーさせることとなる。現在に至るまで、スクーデリア・フェラーリを除いて、これほど多くのフェラーリをル・マンに出場させたチームは存在しない。そして、その数多くのNARTのマシンの中でも、特に際立つ一台がある——

フェラーリ、サルト・サーキットの覇者

ル・マン——それは人間とマシンの究極の試練である。世界で最も過酷な耐久レースの舞台であり、このレースでの総合優勝は、他のどのレースよりも高い栄誉と評価を意味する。101年の歴史を誇るル・マン24時間レースの中で、フェラーリは11回の総合優勝を達成し、世界で最も成功したメーカーのひとつとしてその名を刻んでいる。

フェラーリのル・マン初勝利は1949年、ロード・セルスドンがエントリーし、ルイジ・キネッティが運転したフェラーリ166MMによってもたらされた。このときキネッティは、なんとほぼ23時間を一人で運転するという驚異的な偉業を成し遂げた。

フェラーリの2度目の勝利、そしてスクーデリア・フェラーリとしての初勝利は1954年に訪れた。ホセ・フロイラン・ゴンザレスとモーリス・トランティニャンがフェラーリ375プラスを駆り、優勝を飾る。しかしその後、1955年から1957年にかけて、ジャガーDタイプがル・マンを席巻。フェラーリは1956年の3位(オリヴィエ・ジャンドビアンとモーリス・トランティニャン/フェラーリ625LM)が最高成績だった。

ところが、1958年になるとフェラーリが再びル・マンの頂点へ返り咲く。フィル・ヒルとオリヴィエ・ジャンドビアンがフェラーリ250 TR58を駆り、優勝を果たしたのだった。翌1959年にはアストンマーティンDBR1が1-2フィニッシュを達成し、フェラーリ250GT勢は3-4-5-6位に入賞。ル・マンの舞台は、世界の名だたる自動車メーカーが覇権を争う戦場となった。

フェラーリ、1960年代の黄金時代へ

ル・マンでは常に熾烈な競争が繰り広げられ、世界屈指の自動車メーカーがしのぎを削っていた。しかし1960年代に突入すると、フェラーリは他を圧倒する支配力を見せつけることとなる。

フェラーリの黄金時代は1960年に幕を開けた。この年、スクーデリア・フェラーリは250 TR59/60(ポール・フレール&オリヴィエ・ジャンドビアン)で1位を獲得し、さらにNARTがエントリーした250 TR59(アンドレ・ピレット&リカルド・ロドリゲス)が2位に入る1-2フィニッシュを達成。さらにトップ10にはフェラーリが4台も入ったのだ。

1961年にはさらにフェラーリが圧倒的な力を見せつけ、1-2-3フィニッシュを成し遂げる。スクーデリア・フェラーリの250 TR61(フィル・ヒル&オリヴィエ・ジャンドビアン)が優勝し、これがフェラーリの黄金時代を決定づけたと言えよう。

1962年もフィル・ヒル&オリヴィエ・ジャンドビアンがフェラーリ330 TRi/LMを駆り連覇。さらに、2位と3位にはフェラーリ250 GTOが入り、他を寄せ付けない強さを見せた。

1963年には、SEFAC(スクーデリア・エンツォ・フェラーリ・アウトモービル・コルセ)の250 P(ロレンツォ・バンディーニ&ルドヴィコ・スカルフィオッティ)が優勝し、2位から6位までがフェラーリ勢となる独占状態に。

この4連覇は、当時のル・マン最多連覇記録であるベントレー(1927~1930年)とアルファロメオ(1931~1934年)の4連覇に並ぶものだった。しかしここで終わらないのがフェラーリ。

1964年には、前年に勝利を収めた275 P(ジャン・グイシェ&ニーノ・ヴァッカレラ)が連覇し、さらに2位と3位に330 P、トップ10には3台の250 GTOが入るという圧倒的な支配力を誇った。

この5連覇により、フェラーリはル・マンの歴史上最も長い連続勝利記録を保持することになった。そして、この記録が試される1965年が訪れる——。

250 LM:ル・マンのための250 GT

1960年のF1シーズンにおいて、フェラーリがグランプリカーにミッド/リアエンジンを採用して以降、マラネロはこのエンジン配置を推し進めてきた。この進化は、1960年代初頭の小排気量ディーノ・プロトタイプを通じてさらに加速し、最終的にはテスタロッサ仕様のV12エンジンをプロトタイプシャシーNo.のリアに搭載したことで、1963年のル・マン24時間レースで優勝した伝説の250 Pが誕生した。

1963年半ば、フェラーリはスポーツカー競技において250 GTOの後継モデルを探していた。エンツォ・フェラーリは、250 PのレイアウトをそのままにGTクラスのベルリネッタへと進化させることが最適であると判断。250 PのシャシーNo.をほぼそのまま流用し、スカリエッティ製の新たなアルミニウム製ボディを装着。特徴的なローフルーフとフライングバットレス風のリアピラーを備えたデザインが採用された。

1963年のパリ・サロンで正式に発表された250 LMだったが、FIAのホモロゲーション取得に苦戦することになる。特に、当初予定されていた3.0リッターエンジンが3.3リッターのシングルオーバーヘッドカム・ドライサンプ仕様のV12(内部名称:タイプ211)にアップグレードされたことで、GTクラスではなくプロトタイプクラスに分類されることとなったことが大きかった。このFIAの決定にエンツォ・フェラーリは失望し、250 LMへの関心を急速に失った。その結果、250 LMはフェラーリのワークスカーとしての使用を想定せず、少数の生産台数をプライベートチーム向けに供給することとなったのだ。こうして、250 LMはフェラーリ史上初めてリアエンジンを採用したプライベート向けのレーシングカーとなり、この流れは現在に至るまで続いている。

1966年半ばまでに、わずか32台の250 LMが生産され、現在では最も人気の高いフェラーリの一台となっているのは、周知の事実だ。その魅力は、先進的なエンジニアリング、美しいボディデザイン、そして華々しいレース戦績によって裏付けられている。

ジャイアント・キラーの誕生

1964年後半に完成したシャシーNo.5893は、製造順としては6台目の250 LMであり、ルイジ・キネッティ・モータースに納車された。キネッティはこの車をコネチカット州ウィルトンのアイリーン・ヤング夫人に販売。しかし彼女と夫のウォルターは、250 LM(シャシーNo.5901)も所有していたため、5893はすぐに手放し、キネッティのもとへ戻ることとなる。これは結果的に幸運な出来事だった。なぜなら、この車が後に歴史に残る最大の成功を収めることになるからだ。

キネッティの手に戻った250 LMは、北米レーシングチーム(NART)のレース車両として真っ先に候補に挙げられた。当時、NARTはフェラーリ本社から直接支援を受けるわずか4つのプライベートチームの1つであり、その中でも最も重要な存在であった。1965年初頭、この250 LMには、空力特性を向上させるためにピエロ・ドロゴが設計したロングノーズが装着された。ドロゴは、フェラーリのプロトタイプレーシングカーのボディワークを数多く手掛けたコーチビルダーであり、その実績を買われていた。

1965年のル・マン24時間、あの有名なフェラーリとフォードの戦いが繰り広げられたレースだ。フォードは、フェラーリの買収に失敗した後、ワークスチームとして強力な布陣を敷いていた。フォード/シェルビーは5台のデイトナクーペ、4台のGT40、さらに新開発の7.0リッターGT40を2台投入。一方のフェラーリも、これに対抗するため12台のマシンをエントリーさせた。そのうち5台は250 LMであり、すべてフェラーリが支援する各国のプライベートチームによる参戦だった。

NARTは、この年2台のフェラーリをエントリー。

#18:フェラーリ365 P2(ペドロ・ロドリゲス & ニーノ・ヴァッカレラ)

#21:フェラーリ250 LM(シャシーNo.5893、マステン・グレゴリー & ヨッヘン・リント)

こうして、250 LM(シャシーNo.5893)は、NARTを代表するマシンとして歴史に名を刻むこととなる。

・・・後編へ続く。