東京・目白台の永青文庫で秋季展「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」が始まりました。所蔵する59通がすべて重要文化財に指定され、直筆であることが確実な唯一の手紙をも含む点で、質量ともに突出している細川家伝来の織田信長の手紙コレクション。同展は、2022年に永青文庫の収蔵庫で新たに発見された手紙も含む全60通の珠玉の信長の文書を通して、室町幕府の滅亡から本能寺の変までに至る激動の10年間を読み解き、真の信長像に迫るものとなっています。
永青文庫は、初代細川藤孝(幽斎)と2代忠興が礎を築き、肥後熊本54万石を治めた細川家に伝わる数多くの重宝を所蔵する“大名家の美術館”です。2022年に同館の収蔵庫で、熊本大学永青文庫研究センターとの共同調査によって、新たに60通目となる細川藤孝宛織田信長書状1点を発見。それまでの59通のなかで一番古いものよりさらに半年前の日付で、検討の結果、この書状の年代は元亀3年、つまり室町幕府の滅亡、将軍足利義昭の京都没落の約1年前に書かれたものと結論づけられたのです。
新発見! 藤孝宛て織田信長書状が示すこと
藤孝に宛てた書状の中で信長は、「元亀3年の年頭から、将軍足利義昭の側近衆は誰ひとり、手紙も贈り物もを寄こさず絶交の状態になっているが、そんななかで藤孝、あなただけは毎年のように私に音信してきてくれる、本当にうれしい。大事な時期になった今、あなただけが頼りなので、京都の南から大阪までの間の有力な領主たちを信長派に引き入れて欲しい。それはあなたの働きかけにかかっています」といった内容を記しています。
これは、将軍足利義昭の側近衆と信長とが激しく対立し始めていたなかで唯一、藤孝だけが信長と通じる関係にあったこと、さらに京都没落の前年から畿内領主たちへの藤孝の諜報活動が本格化していたことを記す非常に大きな新発見だと、調査にあたった熊本大学永青文庫研究センター長の稲葉継陽先生はこの文書の意義を強調します。
「そもそも足利義昭と信長とを結び付けたのも、信長が義昭を将軍に担いで京都に幕府体制を再建させた立役者となったのも藤孝。最終的に“室町幕府滅亡のキーマン”となったこの藤孝という人物の政治史上の位置付けを、もう一度検討すべきだとこの史料が教えてくれます」(稲葉先生)
感極まって自分で書いた!? 直筆から垣間見える信長像
同展には60通の「信長の手紙」が登場しますが、実際に信長自ら筆を執っていたわけではありません。当時の武将の手紙というのは、右筆(ゆうひつ)という書記官が口頭で伝えられた内容を文書にし、本人はそれを確認して最後の署名、いわゆる花押だけ書くものでした。信長の場合には花押のほかに、「天下布武」印も使われています。
ところが一定の条件のもとでは、武将自身が筆を執ることがあったそうで、それは右筆にも知られたくない機密の中身の場合か、あるいは感情が高まってどうしても自分で書きたくなった場合。同展に登場する信長唯一の直筆の手紙《織田信長自筆感状》は、後者だそう。
天正5年、ほぼ初陣で軍功をあげた15歳の忠興の働きを報告した「御折紙」を上様(信長)が読み、大変喜んで「御自筆で御書をなされた」と記した信長の側近・堀秀政の添状によって、この手紙が信長自身の筆によるものだと証明される、まさに“折り紙付き”の一通です。
その信長直筆の字は、稲葉先生によると“豪放磊落”。「右筆の筆跡は中世の右筆のお手本のようで、一文字一文字はっきり画然と書いているのに対して、信長の筆跡はそこから大きく逸脱したような印象を受けます」。同展の図録では、「信長は書道の基本を身につけた上で書いている、見事な筆さばきで、いわばアクセルとブレーキを踏み分ける実力者。この筆はひとくちに“力強い”と言っても“力ずく”ではなく、コントロールの効いた品位さえ漂っている。この時45歳の信長の真筆の基準となるもの」と評されているそう。信長直筆とされる書状はほかに2通ありますが、信長の直筆かどうか考えるにあたって、この筆跡との類似性と距離感を測って論評される唯一の書状なのだとか。
「本能寺の変」7日後の明智光秀の手紙や、“学芸のカリスマ”藤孝の『源氏物語』も!
さらに、明智光秀が藤孝に宛てた6月9日付の手紙も登場します。「本能寺の変」が起きたのが6月2日。これはそのわずか7日後に、丹後にいる藤孝・忠興に送った3箇条の誓約書。第1条では「細川親子が信長の死を知って剃髪したことに当初は腹が立ったが、思い直したので入魂(じっこん)を願う」と懇願し、第2・3条では「味方してくれるならば、丹後の他に摂津ないし若狭の支配権を分与する。信長殺害は忠興などを取り立てることが目的なので、ちかく近国の情勢が安定したら、自分の子息や忠興に畿内の支配権を引き渡す」と誓っています。
信長の下で常に行動を共にしていた藤孝と光秀。忠興の正室は光秀の三女・玉(のちの細川ガラシャ)で、姻戚関係にあった両者ですが、そんな光秀の懇願にも関わらず、実はこの時すでに豊臣秀吉と通じていた細川家は丹後を動かず、この手紙の日付から4日後に、光秀は秀吉に敗れて滅亡するのです。
室町幕府滅亡のキーパーソンであり、「本能寺の変」後には明智光秀とは結ばず秀吉を選び、最終的に徳川家康に仕えて国持大名になった藤孝。ひとつ選択を間違えば家が滅亡するような緊迫した状況の連続で、この時代の天下人全員に仕えた藤孝の慧眼と処世術には、改めて驚かされます。
そんな藤孝は武将でありながら、文人としても優れた業績を残しています。『古今和歌集』の秘説「古今伝授」の継承者としても知られ、和歌、能、茶の湯など諸芸に通じる当代一流の文人、いわば“学芸のカリスマ”。展示には藤孝(幽斎)筆と伝わる《源氏物語》や、細川ガラシャ作と伝わる雨具「露払」、細川家伝来の香木「蘭奢待」など、信長や藤孝・忠興ゆかりの品々も登場します。
戦場や一向一揆との死闘、家臣の裏切りといったスリリングな状況下でリアルタイムに交わされた書状60通から、日本史の一大画期となる出来事を通覧する同展。なかには信長が秀吉を“猿”呼びしていた説を裏付けるものや、石田三成が忠興に宛てた自筆の書状も登場します。ぜひ信長の肉声がつまった手紙の迫力を、生で感じてください。
■information
秋季展「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」
会場:永青文庫
期間:10月5日〜12月1日(10:00〜16:30)/月曜休(※10/14・11/4は開館、10/15・11/5は休館)/会期中、一部展示替えあり
料金:1,000円/シニア800円/大学・高校生500円/中学生以下、および障がい者手帳提示の方および付添者1名まで無料