松山猛が語る加藤和彦、ザ・フォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンド

音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。

2024年5月の特集は、「TM NETWORKと加藤和彦」。前半2週が今年デビュー40周年、5月15日に初めてのトリビュート・アルバム『TM NETWORK TRIBUTE ALBUM -40th CELEBRATION-』をリリースしたTM NETWORK。後半2週が5月31日からドキュメンタリー映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』が公開された加藤和彦を渡り掘り下げていく。

田家:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター・田家秀樹です。今流れているのは「あの素晴らしい愛をもう一度~2024Ver.」。作詞・北山修さん、作曲・加藤和彦さん。歌も2人で歌って1971年に大ヒットした曲の最新版ですね。オリジナル音源の加藤さんの声に合わせて歌っているのは、坂本美雨さん、石川紅奈さん、北山修さん、坂崎幸之助さん。5月22日に発売される『The Works Of TONOBAN~加藤和彦作品集~』からお送りしております。今週と来週の前テーマはこの曲です。

あの素晴しい愛をもう一度~2024Ver. / Team Tonoban

今週と来週、後半2週が5月31日からドキュメンタリー映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』が公開された加藤和彦さんの特集です。映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』を入口にあらためて加藤さんのことを偲びたいと思います。今週のゲストは盟友の作詞家、エッセイスト、作家、松山猛さん。ザ・フォーク・クルセダーズ、ソロ活動、サディスティック・ミカ・バンド。加藤さんの曲には欠かせなかったパートナー。もちろん「帰って来たヨッパライ」、「イムジン河」の生みの親でもあります。映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』には当然登場されております。よろしくおねがいします。

松山:はい、こちらこそ。

田家:まずは映画をご覧になった感想から伺えますか?

松山:加藤くんの付き合いの広さ、いろいろな方が映画の中で彼について語るんだけど、そうかそうか彼もいた彼もいたって感じでいろいろな人に影響を与え、与えられ音楽をやっていたんだなという想いですね。僕の知らない部分もたくさんありますから。

田家:映画になったときに今までお付き合いされていたり、ご自分が歌を作られたりしたのと違う画面から感じるものって何かありました?

松山:まあね、ちょっと神格化されているところがありますよね(笑)。いなくなっちゃったから余計にそう思えるんだと思いますけどね。

田家:あれはどういう流れの中での撮影だったんですか?

松山:僕が最初に聴いたのはクラウドファンディングで映画を作りたいって監督の相原さんが牧村憲一さんと仕事をしているときに。よろしくって聞いたのはもう5年くらい前になるのかな。

田家:そういう話もおいおい伺いながら話を進めていこうと思うのですが、松山さんにご自分で詞を書かれた曲を選んでいただいていて、まず1曲目はなんと言ってもこの曲ですね。

イムジン河 / ザ・フォーク・クルセダーズ

田家:お聴きいただいているのは5月22日発売の『The Works Of TONOBAN~加藤和彦作品集~』のものなのですが、リマスタリングされているので、ちょっと聴こえ方が変わっているかもしれない。

松山:そうですね。なんか素敵な感じになっていると思いますね。

田家:古い感じがしないですもんね。もともとは1967年10月に発売になったザ・フォーク・クルセダーズの自主制作盤『ハレンチ』の中に入っておりました。松山さんには以前、この番組の前に1回お話を伺ったことがあって、朝鮮中高等学校へサッカーの試合を申し込みに行ったときにこの曲を聴いたと。

松山:そうです。京都だけじゃないと思いますけど、結構朝鮮学校の子と日本人の学生は喧嘩ばかりしていましたから、なんとかしたいなと思って。担任だった原田さんという先生となんかいい解決方法はないでしょうかねって話をしていて。彼らはサッカーが強いから親善試合みたいなのをしたらどうかなという話になり、僕が申し込みに行ってきますという感じで行ってきたんです。そのとき帰り際にコーラス部が練習しているのが聴こえてきた。

田家:その歌を九条大橋でトランペットを一緒に吹いていた朝鮮の中学の人に楽譜をもらったという話がありましたね。

松山:僕がトランペットでムンくんという朝鮮中学校の人はサキソフォンを吹いていた。お互いに家で練習をすると、近所にうるさいって言われるから橋の上に彼も来て、僕も行って。で、自然と付き合いが始まって、気になる歌を聴いたんだけどってメロディを歌ったら、それは「イムジン河」って今学校で歌ってますって。気になるんだったら彼の妹がコーラス部なので、譜面をもらってきてあげるって言って、楽譜と歌詞が書いてあるものをくれたんです。

田家:その楽譜がすべてだったわけですもんね。

松山:そうです。朝鮮語小辞典というのも彼がくれたから、訳してみたりしていたんです。

イムジン河 / ミューテーション・ファクトリー

田家:流れているのは再び「イムジン河」ですが、歌っているのはミューテーション・ファクトリー。松山猛さん、芦田雅喜さん、平沼義男さん。

松山:北山修くんがプロデュースして、彼もすごい悔しかったんでしょうね。

田家:URCで第一回目のシングルですもんね。

松山:そうなんです。東芝が出しそびれたというか、いろいろ尾ひれがついちゃったりして。北山の悔しさみたいなものがあって、やろうよって言うので。僕も一緒に歌うことになったという。

田家:アマチュア時代のメンバーの芦田さんと平沼さんと楽譜を持ってきた松山さんというトリオ。その楽譜を北山さんにまずお渡しになった? それとも加藤さんにお渡しになった?

松山:いや、彼らの練習場所に行ったんですよ。彼らは当時、コミックソングでうけていたアマチュア・バンドだったんです。

田家:ええ、フォークルはね。

松山:コミカルな歌でうけている人たちがシリアスな歌を歌ったら、どんな化学反応があるかなと思って。周りに反戦歌とか歌っている知り合いもいたんだけど、その人たちがストレートにそれを歌ってもおもしろくないなと思って。で、フォークルに託そうと思って実はこんな歌があるんだけどって相談をしたら、その頃は朝鮮語の1番と日本語の1番しかなかったので、北山がこれじゃステージ持たないよって。持ってきた責任で猛書けよって言うから、彼らが練習している横で2番、3番を作って。

田家:そのときの北山さんの北朝鮮の民謡だと思ったことをとても今後悔しているみたいな話が映画の中にありましたね。

松山:そうですね。僕も知らずに伝えちゃったおっちょこちょいなところがあってね。ビジネスにするんだったら、レコード会社でちょっと調べてよって思いましたけどね(笑)。

田家:まあそうですよね。実際に有名な作家の方が作られていて。

松山:そうなんです。作曲者も南側の人だったんです。朝鮮動乱で結局北へ行ったまま帰れなくなっちゃった。そういう思いも込められているんだと思いますよ。イムジン河を挟んで、自分たちの本当の故郷は向こうなんだけど。それを決して彼ら言えなかっただろうけど。

田家:レコード会社としては北朝鮮は日本と国交がないし、そういう名前は出せないということで中止になってしまった。URCはメジャーでは出せない音楽を世に送り出すということで始まったアンダーグラウンド・レコードクラブですもんね。

松山:「帰って来たヨッパライ」でちょっとお金ができたので、そういうことができるようになって(笑)。

田家:そのお金ができた元の曲をお聴きいただきます(笑)。松山さんが選ばれた今日の2曲目、フォークルで「帰って来たヨッパライ」。

帰って来たヨッパライ / ザ・フォーク・クルセダーズ

田家:これがラジオ関西で流されて話題になって、聞きつけたニッポン放送の方、パシフィック音楽出版の方が行かれてプロデビューになっているわけですもんね。

松山:300枚出てたんだけど、北山くんが想像していたより誰も買ってくれなくて。彼は親父に借金したものだからラジオ局とか訪ねて歩いてお願いをして。その中のラジオ関西の女性のディレクターの方が。

田家:はい、高梨ディレクター。

松山:おもしろがってくれて、どんどんかけてくれるようになった。

田家:映画にはラジオ関西の高梨さんという方がお出になっていたので、あ、こういう女性なのかと思いましたけどね。お名前は存じ上げていましたけども。

松山:僕は会ったことなかったんです。

田家:あ、そうなんですか。この「帰って来たヨッパライ」はそもそもが松山さんのお宅のおこたでできたという話がありましたよね(笑)。

松山:京都の町家でね、僕ら台所っていうリビングルームですね。そこにこたつがあって、加藤と僕に自分たちの歌作ったら?って言ってくれたのは、加藤さんの最初の奥さんの福井ミカちゃんだったんですね。最初はトーキング・ブルース風のゆるいナンバーだったんです。最初作っていたときはね。それが彼らの練習場所で北山が入ってきて、やっているうちにどんどんおもしろいものになっていって僕は途中経過を知らないからレコードになって聴いてびっくりした(笑)。僕が一番最初にびっくりしたんじゃないですかね。

田家:トーキング・ブルースは2人で歌いながらお作りになったんですか?

松山:歌いながらというか。

田家:詞を書きながら。

松山:そうそう、書いて、加藤がメロディを作ってっていう感じで。

田家:加藤さんに福井ミカさんを紹介したのも松山さん?

松山:逆、逆(笑)。福井ミカが加藤を紹介してくれた。ミカちゃんは京都の郊外、東山の近所に引っ越してきて、ミカの家のすぐそばに僕の当時大親友だった田中くんというのがいて、おもしろい姉妹が引っ越してきたぞとか言って知らないうちに仲間みたいな感じになって。ボーイフレンドができたって言うから、見せろ見せろって福井家に行ったら、福井家のおこたのところに加藤くんが座っていて、横にマーチンのギターがあって、京都でマーチンのギターなんか持ってるやついなかったから、当時。すごいギター持ってるなと思って。

田家:ヨッパライもサディスティック・ミカ・バンドも松山さんがいなかったら、成り立っていなかったかもしれないですね。

松山:最近よく思うのは、加藤くんと北山くんと僕と、他のメンバーもそうなんですけど、福井ミカがいなければ、この化学反応は起きなかったんだよね。それはすごくいい偶然だったなと、つくづく思いますね。

田家:北山さんと加藤さんの家の間に松山さんのお宅があった。

松山:そうですね。

田家:お2人の家がどんな家だったかを想像しながらこの曲をお聴きいただけるとと思います。松山さんが選ばれた今日の3曲目「家をつくるなら」。

家をつくるなら / 加藤和彦・西岡たかし

田家:1971年のソロ・アルバム『スーパー・ガス』の中の曲で1973年にシングルカットされた、CMソングでも使われている息の長い曲ですね。この歌はたぶん初めて聴かれるっていう方が多いでしょうね。

松山:僕も初めてですね。このバージョンは。

田家:映画の中にも出ていましたが、1973年の神田共立講堂でのライブ音源で、加藤和彦さんと西岡たかしさん。こういう音源があったんだなと思いましたが。

松山:びっくりしました(笑)。

田家:ははははは! この家ということで言うと、加藤さんの家ってどういうお宅だったんでしょう。

松山:加藤くん家族が京都で住んでいて僕が訪ねていった家は、お母さんのお父さん。加藤くんの祖父の方が仏師、仏さんを彫ったり、修復したり。

田家:岡倉天心さんの。

松山:そうそうそう。日本美術院のメンバーだった人で三十三間堂の仏像も加藤のおじいちゃんが直していますね。加藤家族は東京とか鎌倉で住んでいた時期が長くて、お父さんの仕事の都合で京都に来ることになったんですよね。

田家:加藤さんご自身のご両親はとてもモダンな方だったという話も。

松山:そうですね。特にお母さんはハヤカワ・ミステリとか大好きでね。僕も加藤家に遊びに行くと、本棚を見ておもしろそうなのを借りて。特にその中で僕がよく読んだのはレイ・ブラッドベリという、すごく影響を受けたというか。そこからインスパイアされて作った歌が何曲もありますね。

田家:そういう加藤さんのおじいさまが仏師だったという話も、あまり知られてないのかなと思ったりもしました。

松山:晩年、50代かな。そういうあれで岡倉天心とかをテーマにしたアルバムを作りたいねって話にはなったんです。そうこうしているうちに彼はこの世から消えてしまって、実現しなかった。

田家:そういう意味ではいろいろな仮定が成り立つでしょうし、もしこうじゃなかったらとか、もしこうだったらというようなこともたくさんある方なんだなと思いながら松山さんが選ばれた4曲目を聴いてみようと思います。

もしも,もしも,もしも / 加藤和彦

田家: 1971年のソロ・アルバム『スーパー・ガス』の中の「もしも,もしも,もしも」。さっきの「家をつくるなら」も「もしも,もしも,もしも」もそういう意味では当時では珍しいタイプのラブソングでしたよね。

松山:そうですね。回りくどいラブソング(笑)。

田家:この2曲を選ばれているのはあらためてこれを知ってほしいとか。

松山:僕らの仕事の中でもわりとまだ純情だった部分がいっぱいある時代の歌ですよね。僕はあまりラブソングを書いたことないんですけど、この2曲はいつまでも聴いてほしい歌だと思います。さっきライブでね、「家をつくるなら」で3番か4番、タイヤをパクってきてって言ったでしょう。あれは太陽を盗んできてが本当ですよ(笑)。

田家:なるほどね(笑)。

松山:でもね、エコロジーを考えていたんですよね。あの頃ね。自然エネルギーを取り入れて暮らそうよみたいな気分で書いていますからメッセージソングでもあるんです。

田家:この「もしも,もしも,もしも」はそういうところがありますよね。

松山:そうですね。逆転の世界ですけれども、回りくどいという(笑)。もっとストレートに好きって言えばいいのになという。

田家:北山さんが「コブのない駱駝」があるように、やっぱりこういうちょっとひねった形のラブソングがありますもんね。

オーブル街 / ザ・フォーク・クルセダーズ

田家:1968年7月発売、加藤和彦さん、北山修さん、はしだのりひこさん、第二次のザ・フォーク・クルセダーズのアルバム『紀元弐阡年』から「オーブル街」。作詞はもちろん松山さん。これはフォークルの名曲の中の1つですもんね。

松山:そうですね、ははは。

田家:これは以前伺ったときに驚いたんですけど、イメージが京都の御所だった。

松山:御所の森を見ながらイメージしたところがあります。「オーブル街」というのは空想の街なんだけど。

田家:これをお聴きになった方は大体フランスのブローニュの森とか、そういうのを思い浮かべますもんね。

松山:そうそう、まだフランス行ったことなかったので、当時は。御所でちょっと代用しちゃったというかね。でも悲しい気持ちをいっぱい込めて作った詞です。

田家:これは詞が先にあって?

松山:たぶんそうだったと思います。

田家:フォークルは詞も書いたりされるので、あまり松山さんと加藤さんというコンビは数があまりないですもんね。

松山:フォークル時代は僕はオブザーバーというか、おまけの一人みたいな感じだったから何曲かは提供しましたけど、彼らが忙しくなっちゃったの、プロになって。10カ月間、間が空くんですよ。

田家:期間限定でプロになって、日本中を席巻したわけですもんね。

松山:北山くんは学業に戻らなきゃいけなくて、お父さんとの約束でお医者さんの息子なんでね。

田家:松山さんは代理店でしたっけ?

松山:当時は広告代理店にいたときに、ヨッパライが売れちゃったんですよ。その広告代理店の社長がすごくおもしろい人でかわいがってくれたんだけど、その後いろいろあって会社を辞めましてね。小さい「デザインキュー」というところに拾ってもらって、そこでコツコツとデザインをしていたんです。毎日電話かかってくるようになったんですよ。というのは、プロのフォークルが解散しちゃって、北山は学業に戻ったから。

田家:あ、加藤さんからね。

松山:一緒にやるやつがまたいなくなっちゃう。で、加藤くんとそれこそ高崎一郎さんが来てくれ来てくれっていう感じで。

田家:東京へ来いと。

松山:そう。それで1969年の12月に東京に出てきました。

田家:それは作詞家になるというふうに意識されて?

松山:いや、僕はプロになろうと思っていなかったから、どちらかと言うと東京でもデザインの仕事がしたいと。ちょうどan・anが始まる頃で加藤くんの知り合いの川村都さんとか、堀切ミロさんとか、彼女らがおもしろがってan・anに連れて行ってあげるって、堀誠一さんっていうアートディレクターの方と知り合って、僕も雑誌の仕事をするようになったんです。

田家:加藤さんは俺の曲の詞はお前が書いてくれと。

松山:しばらく一緒にやろうよみたいな。

田家:『スーパー・ガス』は全曲ですもんね。そのアルバム『スーパー・ガス』の中から松山さんが選ばれた次の曲「不思議な日」。

不思議な日/ 加藤和彦

田家:1枚目の『ぼくのそばにおいでよ』は松山さんの詞だけではなかったのですが、『スーパー・ガス』は全部松山さん。

松山:そうですね。うん。

田家:これ加藤さんらしいですね。

松山:歌いまわしがね。

田家:もう、ああ、加藤和彦だなあ、加藤さんだなあって。

松山:加藤節ですね。

田家:ですね。ちょっとしみじみしますね。これを選ばれているのは?

松山:現実社会がいろいろややこしくなってきていますからね。だからこそ、こういう世界を聴いてほしいなと。

田家:四季、季節を歌いこむのは松山さんの中にいつか歌いたいと思っていたという。

松山:それはありましたね。日本人の言葉の世界を、それこそ百人一首の時代からみんな季節を歌いこんでいくじゃないですか。日本人にとって季節の変わり目だとか季節の匂いだとか、そういうのがすごく重要なことだと僕は思うし。

田家:こういう平和な世界があって、70年代らしい1つの理想世界でもあったのでしょうが、この後1972年に加藤さんはミカ・バンドを結成されているわけですよね。

松山:そうですね。彼はアマチュア時代かな。アメリカに行っているんですよ。プロのフォークルが終わった後アメリカに行くんだけど、ヒッピーっぽい格好をして帰ってきたけど、たぶんヒッピーの世界には馴染めなかったと思います。そのままロンドンに行って、自分の好きな世界はこっちにあったんだって思うんだよね、きっとね。

田家:ミカ・バンドの影の仕掛け人が松山さんだったという。

松山:仕掛け人というか、よく一緒にいましたからね、当時ね。

田家:ミカさんもその頃からお付き合いですもんね。

松山:彼らがロンドンでロールス・ロイスを買ってきてね。加藤くんは免許ないから運転はミカで、そんな時代でしたね。

田家:その過程はどういうふうにご覧になっていたんですか? 加藤は何をやろうとしているんだろうとか、おもしろいなとか。

松山:1969年に出てきてから、1970年とか1971年はよくレコード屋さんに一緒に行って、いろいろなおもしろいレコードを探したりして。ちょうどT・レックスが流行り出した頃でね。ピンク・フロイドも出てきたり、今までのビートルズとかストーンズの世界とはちょっと違うロンドンの音が聴こえてきたのがすごく刺激になったと思います。

田家:ミカ・バンドの代表作、1974年11月の2枚目の『黒船』は、1曲以外全部松山さんですもんね。

松山:そうですね。僕もよくロンドンへ行くようになって、向こうのプログレッシブの音楽をやっている人たちとお付き合いをしているうちに、もしまたミカ・バンドで2枚目をやるんだったらバラバラの曲じゃなくてひとまとめ、コンセプトを作ってやった方がいいなと思って加藤にもうちょっとコンセプチュアルにやろうぜって言って、黒船の時代をテーマにして1枚を作りました。

田家:その中からこの曲がシングルカットされて、これも未だにいろいろなバンドがカバーしているという日本のロックのスタンダード中のスタンダード。松山さんが選ばれた今日の7曲目、サディスティック・ミカ・バンドで「タイムマシンにおねがい」。

タイムマシンにおねがい / サディスティック・ミカ・バンド

田家:1974年10月発売のシングルなのですが、映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』の中ではロンドンでのライブ、ミカさんかっこよかったですねー。

松山:僕ね、それ行けてないんですよ。なんで行けなかったのかよくわかりませんけどね。僕もしょっちゅうロンドン行ってたけど、1回ね、ロンドンでミカバンの連中、加藤と歩いてくる。僕は別の仕事で行っていてすれ違ったことがあって。道の車道を挟んで向こうの歩道とこっちの歩道でおう!とか言って(笑)。

田家:このバージョンがCDの『The Works Of TONOBAN~加藤和彦作品集~』に入っております。このミカ・バンドが8枚組のボックスが出たんですよね。このボックスすごいですね。70年代のオリジナルアルバムが3枚とライブ盤1枚。1989年のミカ・バンドのオリジナルとライブ。この「タイムマシンにおねがい」は1989年のライブと1976年の京都円山音楽堂での未発表ライブ、レアトラックス、それが両方入ってましたね。円山音楽堂のライブというのは貴重ですね。

松山:そうですね。京都で凱旋公演したんだね、彼がね。

田家:ミカ・バンドに対してあらためて思われることってどういうことですか?

松山:やっぱりこれもまた一種の化学反応で、あのメンバーが揃わなかったら『黒船』のあの音はできなかったんじゃないかなと、この間しみじみ聴きながら思いました。高中ギターもそうだし、小原のベースもそうだし、今井裕、キーボードの。彼らの作り出す音のぶつかりあいっていうかね。どれがなくてもあのアルバムはできなかったんだなと思いました。

田家:黒船っていう日本と欧米の文化とのある種の出会い。でもあのアルバムがそういうイギリスと日本のシーンを繋いだとか、それまで日本の中に入ってこなかったイギリス的な何かを持ち込んだという日本のロックの中でも黒船的なアルバムになりましたもんね。

松山:僕が一番うれしかったのはアメリカとイギリスでLPが発売されたんです。初めて外国から印税をもらってね。それはちょっと誇りに思っています。

田家:今日は最後に松山さんが選んでいただいた曲ではないんですけど、あまり語られないなこの曲はと思って、この曲の話をお訊きしようと思って締めたいと思います。

カフェ・ル・モンドのメニュー / チッチとサリー

田家:1970年3月発売になった「カフェ・ル・モンドのメニュー」。名義がチッチとサリー。加藤和彦さんとサイドボーカルは小野和子さんかな。この曲は思い出されることはありますか?

松山:やっぱりパリに対する憧れとかがすごくあって、フランス好きだったもので。まだ1970年は行ってないですね。翌年行ってますね。

田家:カフェ・ル・モンドというのは松山さんのイメージにおありになって。

松山:そうですね。オーブル街と一緒ですね。たぶんオーブル街にあるカフェなんです(笑)。

田家:映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』は音楽家の面だけではなくて、料理人の方、有名シェフが登場していたので。

松山:三國くんとかね。

田家:そういう面までもスポットを当てているんだと思いましたけど、松山さんがお付き合いされている中で料理は大きい要素なんですか?

松山:彼は大学は京都の大学に入って、フォークルをやりながら将来について語ることがあって、料理人になろうかなとか、テレビ局に勤めようかなとか、そういうふうに言ってましたね。料理は好きでした。

田家:そういう意味ではいろいろ語っていないところとか、もっともっと語っていきたいことだとか、語り残したいことがたくさんおありになるでしょう?

松山:でも、音楽に忙しかったんだろうな、彼の人生は。次々と新しいことにチャレンジしてね。でも、あるときからレコードじゃなくなった。CDでもなくなった。配信の世界になっちゃった。手応えがなくなっちゃった。いろいろやりましたよ、フォークルを新規結成したり、いろいろやったけど掴みどころがなくなっちゃってきたところがあったのかなと思って。安井さんと仕事をしだしてから、その前のミカ・バンドの3枚目のアルバムはノータッチなんですよ。仕事が忙しくなっちゃって、雑誌の仕事。僕的には『黒船』の達成感があったので、しばらくあれを超えるものは書けないなみたいな。あとはもう好きにしてって冷たい言い方かもしれないけど、彼は彼のやり方でいきたいだろうし。僕は身を引いたんだけど、そこからちょっと時折は会っていたけど、一緒にやりましょうみたいなことはなくなっちゃった時期が長くてね。フォークルの新結成ぐらいから、またやり出したんだけど、あのへんもやっぱりおもしろがりながらもがいていたのかなって気はします。

田家:亡くなって15年。この15年ということで、もし加藤さんに「もしも,もしも,もしも」でお会いするとしたら、どんな話をされたいですか?

松山:岡倉天心の世界、もう1回やろうかって。でも難しいだろうな(笑)。

田家:わかりました! 松山さんお元気で、これからまた旅に行かれる。

松山:旅もしますし、僕も今新しい詞をいっぱい書いているんですよ。京都時代の仲間だとか、そういう人に書いているから、それこそちゃんと市販するようなCDになるわけでもなく。でも、YouTubeでは聴けますよ。

田家:そういう話をあらためてまたここで聞かせていただける日が来るとうれしいなと思いながら。

松山:はい、よろしくお願いします。

田家:ありがとうございました。

左から、田家秀樹、松山猛

静かな伝説 / 竹内まりや

流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

竹内まりやさんのデビューにも加藤和彦さんが深く関わっていて、デビュー曲の作曲をした。これは先月の周年アーティストのデビュー・アルバムの中でも触れましたが、松山さんが加藤はこんなに人脈が広い人だったんだとあらためて思ったという話がありましたが、映画『トノバン 音楽家 加藤和彦のその時代』は本当にいろいろな方たちが加藤さんのことを語っています。北山修さん、松山猛さん、朝妻一郎さん、新田和長さん、つのだ☆ひろさん、小原礼さん、今井裕さん、高中正義さん、クリス・トーマス、泉谷しげるさん、坂崎幸之助さん、重実博、コシノジュンコさん、三國清三さん。そしてアーカイブで高橋幸宏さん、それから吉田拓郎さん、松任谷正隆さん、坂本龍一さんの声も流れます。音楽を中心にして時代を語ったり、人を語ったりという意味では加藤さんは語りがいのあるとても大きい方なので、あらためていろいろな発見がある、そんな映画だと思います。

加藤さんが亡くなって15年なのですが、この番組が始まったのが2014年で、きっかけが2つありました。1つは2013年の年末に大瀧詠一さんが亡くなったこと。もう1つは2013年に『永遠のザ・フォーク・クルセダーズ 若い加藤和彦のように』という1時間番組をFM COCOLOが14回作らせてくれたんです。そのときに北山さんとか松山さんとか、いろいろな8人の方の話を聞いて、番組が民間放送連盟賞というのをもらった。本人が登場しなくても、ここまでの番組を作れるんだという実績があったので、この番組が始められたという流れがあります。そこでは訊けなかったこと、もし時間があったらこういう人たちの話も訊きたかったなという方たちが映画の中ではたくさん登場されています。

そしてFM COCOLOで7月10日にFM COCOLO制作の加藤さんのトリビュート・コンサートがあるんです。ロームシアター京都で行われます。音楽監督が高田漣さん。みゆきさんのトリビュート・コンサート『歌縁』の監督さんですね。その話も来週、もうちょっと詳しくできると思います。来週もお楽しみにしてください。

<INFORMATION>

田家秀樹

1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。

https://takehideki.jimdo.com

https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND CAFE」

月 21:00-22:00

音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。

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