17歳で吉本興業に加入し、その後、吉本新喜劇の看板女優として活躍し続けている島田珠代。ゼネラルマネージャー(GM)の間寛平から吉本新喜劇の65周年を盛り上げる“顔”にも任命され、現在開催中の全国ツアーに全力を注いでいる。芸歴36年も「常に若手の気持ちでステージに立っている」と語る島田。吉本に入った経緯から、パワフルな芸風が生まれたきっかけ、吉本新喜劇への熱い思いを聞いた。

  • 島田珠代

    島田珠代 撮影:蔦野裕

今年3月1日に65周年を迎え、7月7日より65周年記念ツアーを開催中の吉本新喜劇。その顔に任命された島田は「座員で一番顔の横幅が大きいということで選ばれたという風にも聞いていますが、選んでもらってすごくうれしかったです」と喜びつつ、「いつも『私なんて』というマインドがあり、舞台で『私を見てよ!』という感じでやってきたので、顔でいいのか自信がないです」と吐露する。

吉本新喜劇の看板女優として長年活躍しているも、常に若手の気持ちで舞台に立っているという。

「いつも『まだまだ』という気持ちで挑んでいて、常にハッパをかけている状態に。若手だと思うことでどんどん向上心が湧きますし、ずっと初心を忘れないように心がけています」

そして、本来は「すごく寂しがり屋」だと言い、だからこそ、「私がいることを知ってほしいという思いがあり、ステージでは『私を見て!』という感じで爆発してしまう。そういう芸風になったのだと思います」と自身の芸風について分析する。

ひょうきんな性格は子供時代から変わらず。ただ、幼稚園時代は外ではほとんどしゃべらない子で、外でも明るいキャラクターに変わったのは小学生の途中からだったという。

「4歳から書道を習っていたのですが、小学2年生の頃から書道の授業が始まって、先生が私の書いた字をみんなに見せて『島田のこの字は手本や! こんなすごい字を書く子はおらんぞ!』と褒めてくれて、そこからクラスの人気者に。家でやっていたギャグを外でもするようになって、『こんなに活発な子だったの!?』みたいな感じで3年生以降はクラスの中心でした」

大阪出身ということもあり、「面白い人が一番偉くて強い」という考えが根付いているそうで、「新しい学年になってクラスが変わると、いつギャグをやろうか考えて。面白いことをすると友達ができて、私という存在を認めてくれるんだと思っていたので、常に先生のモノマネや一発ギャグを考えて学校でやっていました」と振り返ると、「笑いがいろいろつなげてくれました」と感謝する。

  • 島田珠代

「舞台に立っているときが一番私らしい、生きていると思える瞬間」

とはいえ、笑いを職業にするとは考えてなかったという島田。転機となったのが、『4時ですよ~だ』の一般人参加コーナーに友達が応募したこと。同コーナーで2回優勝し、吉本の社員から心斎橋筋2丁目劇場のレギュラー出演権を獲得できるオーディションを受けないかと声をかけてもらい、見事レギュラーに。そこから遊びでやっていた笑いが仕事に変わっていった。

2丁目劇場は当時、お笑いブームで東野幸治や今田耕司が大人気。観客は女子高生ばかりで、男性芸人たちに交じって笑いを取るために「女を捨てなあかん!」と覚悟を決めたという。

「女子高生ばかりで東野さんや今田さんにキャーキャー黄色い声が飛んでいて、そこに女の子が加わると、『あの子、東野さんや今田さんと関わりたいからお笑い目指したのかな』と言う人もいて、これはもう男にならなあかんわと。女の子はこんなことできないみたいなハチャメチャな動きをしていたら、女の子からバレンタインデーに何個もチョコレートをもらうようになりました」

その後、新喜劇に入団し、2丁目劇場からなんばグランド花月(NGK)が拠点になると、観客が子供から年配まで幅広い層に。すると、2丁目劇場で爆笑を取っていたネタを披露しても、ぽかんとされて笑いが起きず。先輩の浅香あき恵から「新喜劇はお笑いだけどお芝居なの。3枚目の子はかわいくすればするほどツッコミの人がツッコんでくれてウケるよ」とアドバイスをもらい、かわいく振る舞うようにすると、「気持ち悪い!」とツッコまれてウケるようになっていったという。

そこから自分らしさも出していき、かわいく振る舞いつつ、ハチャメチャな動きで笑いを取る今の芸風を確立。「パンティーテックス」など大人気のギャグも生まれた。

芸歴36年。お笑いや新喜劇から離れたいと思ったことは「ない」ときっぱり。「子供と離れて暮らしていた時期もあったんですけど、新喜劇で暴れている時だけはつらいことを忘れられて、本当にこの仕事でよかったなと。舞台に立っているときが一番私らしい、生きていると思える瞬間です」と語る。

そして、自分もつらい時期を経験したことで、「私みたいに心が落ちている人も見に来ているかもしれないと思い、私の仕事は落ちた人を上げる仕事だから、とにかく一生懸命ステージで頑張ろうと改めて思いました」と元気を届けたいという思いがさらに強くなったという。