愛知県の豊橋駅から山間部を経由し、長野県の辰野駅に至る全長195.7kmのJR飯田線。200km近くに及ぶ路線長に加え、私鉄時代に由来する駅間距離の短さ、名鉄名古屋本線との共用区間(豊橋駅~平井信号場間)、山間部の絶景と秘境駅、いわゆる「渡らずの鉄橋」(城西~向市場間)、JR最急勾配の40パーミル区間(赤木~沢渡間)など、魅力に事欠かない。国鉄時代の旧型国電が数多く余生を過ごした場所でもあり、鉄道ファンの間でも人気が高い。

  • JR飯田線の豊川駅から離れた住宅地に伸びる単線は、いつからここにあったのか

その飯田線で、豊川稲荷(妙厳寺)への最寄り駅である豊川駅から次の三河一宮駅へ向かう途中、それとは別方向に分かれる線路がある。鉄道ファンなら知っている人も多いと思うが、これは日本車両(日本車輌製造)豊川製作所へと続く専用線だ。車両工場とつながっているだけに、現在でも使用されることがあると予想がつくものの、いつからこの線路は存在していたのだろうか。

豊川駅から分岐していた旧西豊川支線、幻の駅も

結論から言うと、日本車両豊川製作所への専用線はもともと、戦時下で建設された軍事路線だった。起点となる豊川駅は、私鉄の豊川鉄道によって1897(明治30)年7月に開業した歴史の古い駅。豊橋駅からの区間列車がこの駅で折り返し、1日2往復の特急「伊那路」も停車する。豊川駅西口に隣接して名鉄豊川線の豊川稲荷駅がある。

豊川駅から豊川稲荷(妙厳寺)までは表参道を徒歩5分。駅前に狐の銅像も建っている。戦前、1931(昭和11)年に改築されて洋館造りの駅ビルとなり、参拝客に駅ビル利用者も加わってにぎわったという。しかし建替えのため、旧駅舎は1995(平成7)年に解体された。翌年、駅舎が橋上化され、東西自由通路もつながった。

  • JR豊川駅と名鉄豊川稲荷駅が隣り合う駅前から、豊川稲荷に向かって参道が続く

現・日本車両豊川製作所へ延びる専用線は、戦時中の1942(昭和17)年5月12日、「東洋一の兵器工場」と呼ばれた豊川海軍工廠(1939年開庁・1945年閉鎖)へ工員や資材を運ぶため、豊川鉄道が開業させた。この路線は「西豊川支線」と呼ばれ、開通と同時に西豊川駅(豊川駅から2.4km)も開業。翌年に買収・国有化された。

西豊川駅は工廠からやや離れた位置にあり、一般利用者が乗れたのはこの駅まで。実際には、工廠内に北東門乗降場が設置され、工場関係者はそのまま工場内に入ることができた。鉄道利用者以外に資材の運搬も行われていたが、それが仇となり、当時の米軍が1945(昭和20)年8月7日に行った空襲で標的にされたという。

終戦後、1945年10月に工廠が閉鎖された後も、西豊川支線はしばらく営業を続けた。しかし、利用者数は1日100人以下に激減。1956(昭和31)年9月15日をもって廃止となった。線路自体は日本車両豊川製作所の専用線として、現在に至るまで存続し、新製車両の輸送等で使用されている。

豊川駅から線路沿いを歩き、日本車両豊川製作所へ

ここからは、実際に専用線の線路沿いを歩いてみることにする。JR飯田線は専用線の起点となる豊川駅から単線となり、辰野方面に向かって右側へ線路が集束していく。同駅1番線からまっすぐのびて、その左隣に並行するのが専用線だ。豊川駅から3つ目の谷川踏切まで並行し、そこから専用線は左に大きくカーブして築堤上へ上がっていく。ちなみに、日本車輛製造が1966(昭和41)年に発行した『70年のあゆみ』によると、豊川駅から工場専用線との境界までは384.45mとのこと。

  • 豊川駅からしばらく飯田線と日本車両豊川製作所への専用線が並行。谷川踏切を境に離れていく

  • 飯田線から離れた専用線は県道495号線と交差し、太通踏切付近で地上に降りてしばらく直進する

飯田線から離れた後、専用線の線路沿いには住宅街が続く。大カーブの途中に第一架道橋があり、県道495号線を跨いだ上で地上に降りて来る。架道橋の側面に「豊川起点1K117M」の文字が見え、この時点で豊川駅から1kmは離れたとわかる。

その後しばらくの間、太通踏切、第二札通踏切、良通踏切、女通踏切、美幸踏切、千両踏切といった多くの踏切と交差しつつ、線路と沿道の距離が非常に近い住宅地の中を直進する。太通踏切から先、線路と道路を隔てているのは膝ほどの低い柵のみ。線路内に立ち入らないよう注意してほしい。第二札通踏切から先、線路と道路に挟まれた用地もあり、畑や駐車スペースなどに使われていた。女通踏切から美幸踏切にかけて、一部の架線柱が木製のまま現存している。

  • 一部の踏切には遮断機がない代わりに、踏切と連動する信号機で車・歩行者の進行・停止を促す

美幸踏切では、足もとの踏切板に注目したい。実際に使用される線路との踏切板とは別に線路跡が残されている。一見すると、JR線などで使用される狭軌(1,067mm)よりも線路幅が広く見えるのが気がかりだが、かつてこの付近で線路が分岐していたのではないかと予想される。

それを裏づけるかのように、美幸踏切から千両踏切までの間に位置する桜木公園の北側に、草生した空き地が存在している。この近くで2km地点のキロポストも見つけた。資料によれば、旧西豊川駅は豊川駅から2.4km地点に存在したとのことで、桜木公園北側の前後に西豊川駅が存在したのではないかと考えられる。

  • 美幸踏切に線路跡と思われる踏切板が残っていた

  • 桜木公園(写真奥)と線路の間にある空き地が旧西豊川駅構内ではないかと予想する

  • 2km地点のキロポストも

  • 千両踏切を越えると、佐奈川橋梁に向かってカーブする

  • 佐奈川橋梁(右側が豊川駅方面、左側が日本車両方面)

  • 日本車両豊川製作所前に構える工場踏切。3線構造になっていた

千両踏切を越えると、長らく続いた直線区間が終わって右に曲がり、スギ薬局桜木店の目の前にある油通踏切、そして佐奈川橋梁を渡る。佐奈川沿いのこのエリアは、川沿いに遊歩道が整備され、700mにわたって桜並木が続く。来訪時は葉桜に変わっていたが、次の開花シーズンには再び花見客でにぎわうだろう。

佐奈川踏切から先は、かつての豊川海軍工廠跡地になり、陸上自衛隊豊川駐屯地に沿って線路が続く。貨車の留置線が手前で分岐したところに工場踏切が位置し、ここから専用線は豊川製作所内へ。これが、かつての西豊川支線、現在の日本車両専用線ということになる。

工場で新製された車両を各地へ輸送する際、現在もこの専用線が使用される。ただし、ここまで見て来た通り、一部箇所は線路と道路の距離が非常に近い住宅地となっている。来訪の際は、決して線路に立ち入らないこと、地元住民の迷惑になることはしないようお願いしたい。

海軍工廠の時代から、総合鉄道車両工場に至るまで

日本車輛製造の創業は1896(明治29)年。奥田正香をはじめとする中京エリアの財界人が立ち上げ、民間資本による初の鉄道車両メーカーとなった。ただし、同社が豊川市に工場を構えたのは戦後の1964(昭和39)年で、創業から70年近く経ってからのこと。この場所はかつて豊川海軍工廠だった。現地に置かれている、豊川市による解説板に詳細な説明があった。

豊川海軍工廠の開庁は1939(昭和14)年。日本海軍の航空機・艦船が装備する機銃と、その弾丸の主力生産工場として設立された。それまでこの一帯は「本野ヶ原」と呼ばれる平地林だったが、周辺地域も含めて工廠の街に一変したという。当時の敷地面積は186ヘクタールを有し、碁盤の目のように整備された区画に工場等が並び、最盛期には5万人以上もの人々が働いていた。その規模から「東洋一の兵器工場(または軍需工場)」と呼ばれることもあった。しかし終戦間際の1945(昭和20)年8月7日、米軍の空襲に遭い、2,500人以上もの犠牲者が出たという。

終戦とともに役目を終えた工廠は、1945年10月に閉鎖される。閉鎖後の敷地は陸上自衛隊の駐屯地や大学の研究施設、国鉄豊川分工場などに利用された。この豊川分工場敷地を日本車輛製造が国鉄から譲受したことで、1964(昭和39)年に同社豊川工場(現・豊川製作所)が操業を開始した。かつてそうだった証として、海軍工廠時代の正門が、豊川製作所正門として現在も残っている。

  • 日本車輛製造豊川製作所正門

日本車両の公式サイトによれば、豊川工場では当初、貨車の製作を行っていたが、1970(昭和45)年から機関車、翌年から旅客車の製作も開始し、総合車両工場へと成長していったという。1996(平成8)年に創立100周年を迎え、2014(平成26)年に豊川製作所も開所50周年を迎えた。2019年、新幹線車両製造実績4,000両を達成。豊川で製造された多くの新幹線車両が、日本の大動脈たる東海道・山陽新幹線で活躍している。

もちろん在来線車両も多数製造されている。JR東海、名古屋鉄道、名古屋市交通局をはじめ、関東の私鉄である小田急電鉄、京王電鉄、京成電鉄、新京成電鉄などの車両を受け持った実績がある。東京メトロの銀座線1000系・丸ノ内線2000系、都営地下鉄大江戸線12-600形(2次車)などもこの豊川の地で生まれた。各地の電車・気動車・事業用車両、さらには海外向け車両など、多数の実績を有している。

  • 日本車両で製作された小田急電鉄のロマンスカー・GSE(70000形)

  • 東海道新幹線N700Sも日本車両が製作(報道公開にて編集部撮影)

  • JR東海の在来線通勤型電車315系。第1編成は深夜に出場した

創立100周年を記念し、日本車両の特筆すべき車両を保存する「メモリアル車両広場」も工場内に存在する。1986(昭和61)年に製造された0系新幹線最終ロットの22-2029号車、1935(昭和10)年に製造され、高速電車の元祖となった名古屋鉄道800形、1922(大正11)年に国鉄へ初めて納入された蒸気機関車8620形58623号機、日本初の国産モノレールである東京都交通局上野懸垂線車両と、ボルスタレス台車の試作機であるND701形台車が保存されている。一般には非公開とされているが、一部車両は敷地外の公道から見ることができ、解説板も設置されている。

豊川海軍工廠時代から続くケヤキ並木と名鉄豊川線

最後に余談だが、日本車両豊川製作所の正門から南に続いているケヤキ並木も、海軍工廠の開庁を記念して植樹されたことがはじまりだという。この並木に沿って大通りを南下すると、徒歩約10分で名鉄豊川線の諏訪町駅に着く。じつはこの駅と路線も、戦時中に海軍工廠への人員輸送のため建設された歴史がある。

豊川線は1945年1月、豊川市内線として国府~市役所前(現・諏訪町)間が開通したことに始まる。当初は600V電圧で、路面電車型の車両が運行していた。終戦後の1953(昭和28)年に1,500Vへ昇圧し、翌年4月に稲荷口駅が開業、同年12月に新豊川(現・豊川稲荷)駅まで全通し、あわせて名古屋本線への直通運転も始まった。名鉄名古屋方面から豊川稲荷へのアクセス路線として現在に至るが、開業時の経緯から、いまも豊川線は軌道線の扱いとなっている。

  • 豊川製作所前から南に続くケヤキ並木

  • 諏訪町駅を発車する名鉄豊川線の列車(豊川稲荷行)

  • 豊川稲荷方面から名鉄一宮行の準急が到着。開業当初の諏訪町駅は終着駅だった

豊川駅からJR飯田線とは別方向に延びている線路の正体は、日本車両豊川製作所の専用線だった。ただし、敷設された当初、日本車両の工場はなく、兵器を生産する工場へ人や物資を運ぶ軍事路線だった。その当時、西豊川支線として供用されていた旧西豊川駅の跡地と思われる場所も、実際に歩いて見つけることができた。このような歴史を経て、数多くの鉄道車両を世に送り出す総合鉄道車両工場としての今がある。

繰り返しになるが、現在もこの専用線は車両の輸送等で使用されている。途中、信号機の代わりに遮断機がない踏切や、線路と非常に近い住宅地を通っているため、来訪時は決して線路内には立ち入らず、近隣住民の迷惑にならないようにしてほしい。