瞬く間に伝説となったランボルギーニ・ミウラ|偉大なる闘牛【前編】

ミウラSVをドライブしつつ、ランボルギーニの60年を振り返る。

【画像】登場するやいなやセンセーションを巻き起こしたランボルギーニ・ミウラ(写真4点)

景色はすこぶる神秘的であった。まるで映画のワンシーンのようだ。セージ色で点描するが如くカラムーロ山脈が煌めいている。あたりに人気はない。私たちの方が逆に場違いというべき存在だ。

一台のランボルギーニミウラP400SVが近づいてくるのが分かるだろう。随分前からサウンドが響かせているのだから。

突然に少年の頃(いやむしろ思春期の頃といった方がいいだろうか)へとタイムスリップした。こんな山間の道でこのマシンを駆っていると、英国映画『Italian Job』の冒頭シーンを思い出さずにはいられない。同時にマット・モンローのこの名作を台無しにしてやりたいという衝動を抑えることもまたさらに難しかった。それもまたミウラが呼び起こす浪漫のひとつというものだ。すべてにおいて非常。いつ見てもショッキング。見る者はただただ呆然と立ち尽くす他ない。

ランボルギーニというブランドに関していえば、60年前になぜ・どのようにして生まれたかにはじまって、その歴史は事実と虚実が入り混じりがちだけれど、それはそれで面白いものだ。重要なことは、ランボルギーニは当時すでに確立されていたこのビジネスの様式に逆らって、しかも大いなる自信をたぎらせつつ若いながらも討って出たということだろう。ミウラというモデルが完全な形で登場したのが、ブランドが生まれてわずか3年後であったことを忘れてはならない。

フェルッチョの新規事業計画

フェルッチョ・ランボルギーニは、チェントに小さなガレージをオープンした戦後すぐに車づくりの楽しさに巡り合っている。中古のフィアット・トポリーノを手に入れて二人乗りのバルケッタへと改造し、1948年 6月に催されたミッレミリアに出場したのだ。700マイル走ったもののレストランに突っ込んで彼のレースは終わっている。

その一方で、戦時中の車両を(レース用ではなく)農業用に転用するという彼の事業は急激に成長する。それがランボルギーニ・トラットリチを設立するきっかけとなり、1950年代半ばまでにはイタリアでも有数のトラクターメーカーのひとつになっていた。

トラクターで成功を収めたのちフェルッチョは他の分野にも目をつける。工業用のボイラーとエアコンユニット市場だ。ランボルギーニ・ブルチャトリは成長市場に恵まれた。こうしてフェルッチョは莫大な富を手に入れ、さまざまなエキゾティックカーを買うようになっていく。

そして自動車分野へと進出するきっかけとなった巷の伝説はこうだ。エンツォ・フェラーリに謁見したのち、フェラーリ車の品質に関して思うことを、礼を尽くして正直に伝えようとしたにもかかわらず、彼は待ちぼうけをくらってしまった。そこでフェルッチョはよりエンツォより良いものを作ってやろうと決心したのである、と。

腹心で伝説のジャーナリスト、フランコ・リーニ氏によると、自動車を作るというフェルッチョの決断はイル・コマンダトーレが彼を激怒させたこととは何の関係もなかったと証言している。「フェルッチョを高級車事業へと駆り立てたのは、それがビジネスになると感じていたからなのです」(リーニ氏談)。

1962年、フェルッチョはワークショップ”ネリ&ボナチーニ”の伝で、まだ名前も何もないグラントゥーリズモ用3.5リッターV12エンジンの設計を、当時フェラーリから追い出されたばかりだったジョット・ビッザリーニに依頼した。

ビッザリーニはすでにグランプリカー用1.5リッターV12エンジンの設計を終えており、その排気量を上げるだけでよいと考えた。フェルッチョの要求は最低でも350馬力。唯我独尊の気質で悪名を轟かせたこのトスカーナ人がオールアルミニウム製の V12DOHCエンジンを開発するのに費やした時間はわずかに4カ月。唯一の問題は最高出力を発揮するエンジン回転数が 9000rpmであったことだ。レーシングカー用としては問題ないものの、GT用としては不向きな高回転型だった。そこでフェルッチョはロードカー用エンジンへの改良を若き才能、ジャン・パオロ・ダッラーラに委ねることにする。

最初のプロトタイプは、モデナの東およそ20kmのサンタアガタ村にて部分的に竣工したばかりの自社工場にて完成した。その名も350GTVである。優秀ながら問題も抱えがちなデザイナー、フランコ・スカリオーネによるスタイリングをまとっていた。

1963年のトリノ・ショーにて未完成の 350GTVがアンベールされる。史上初の記念すべきランボルギーニ車の評価は実にさまざまであった。最終的にはミラノのカロッツェリア・トゥーリングがボディワークを改め、正式名 350GTとして64年に生産が始まった。

ミウラの発芽

1年後。まだほとんど実績のない新興ブランドが、再びトリノ・ショーにて新作を披露する。それはV12エンジンをミドに横置きしたベアシャシーだった。もっともそのプロトタイプシャシーを真剣に受け止めた聴衆などほとんどいなかったようだ。その設計は未だ初期段階にとどまっていることが明白で、そこから生まれるものなど何もないはずだ、と。

それからわずか5カ月後のジュネーヴ・ショー。否定的だった人々は意見を180度修正することを余儀なくされる。ミウラがデビューしたのだ。それは瞬く間に伝説となり、スーパーカーという新たなジャンルを確立すると同時に、それまで既存のエキゾチックカーに夢中だったメディアをして従来から存在するライバルブランドが一気に時代遅れになったと言わしめたのだった。

ミウラがこの世に送り出された裏には、驚くほど若い才能たちがひしめいていたことも忘れてはいけない。彼らは個々に天賦の才をもち、組織として群れることなどなかった。ダッラーラと同僚のエンジニア、パオロ・スタンツァーニ(彼らはともにまだ20歳代だった)、そしてテストドライバーのボブ・ウォレスは、彼らが今創り出さんとする車に何ら幻想を抱くことはなかった。根本的に異質な車だったにも関わらず…。

実際、それは十分に実現可能なパッケージではあった。ダッラーラは若い頃、ミニに夢中であったことをのちに認めているが、ミウラの横置きパワートレーンがイシゴニスの設計にヒントを得たものであることは明らかだった。そして横置きされたエンジンは 400GTから拝借したビッザリーニ設計のV12であった。

もっともそのブロックはリアミドに横置きとするべく、トランスミッションとファイナルドライブを抱えた一体型のユニットとして再設計されていた。出力はクランクシャフトエンドからフライホイールを兼ねたスパーギアによってクラッチへと伝達される。さらに自社製の5速ギアボックスを介して別組のスパーギアからデフへと送られ、ドライブシャフトを通じて後輪へと出力は達したのだった。

ミウラはイタリア車として初のミドシップエンジンカーではない(不運な美しきスター、ATS2500GTSがそうだ)。けれどもランボルギーニはミウラによってミドシップカーを、技術的にもそして芸術的にも、まるで別次元へと引き上げた。

ベルトーネの存在

実際にミウラをデザインしたのは誰だったのか。長年マニアを悩ませてきた問題に関してはひとつの物語を紹介するに留めておこうと思う。

ミウラのアウトラインを描いたのは、ベルトーネ在籍中の天才マルチェロ・ガンディーニによるものだと長い間信じられている。まだ20代だった彼がカロッツェリア・ギアへ転籍したジョルジェット・ジウジアーロの後任として、2カ月間の研修期間を終えてベルトーネに入社したのは1965年11月のことだ。のちにミウラとなるプロジェクト・タイガーの詳細をベアシャシーが公開される以前に知る者などベルトーネ社内には誰もいなかった。

当時、トゥーリングはまだデザインパートナーとして機能していたが、程なく廃業する。今後はベルトーネと共に歩むことがそれ以前にすでに決定されていたとはいうものの、実際にミウラのスタイリング作業が始まったのは1965年 11月のことだった。ガンディーニのスケッチをアシスタントで新人のピエロ・ストロッパが側面図と製作図へと落とし込んだ。そして1966年 1月になって、ようやくアルミボディの製作が始まったのだった。

2カ月後、ジュネーヴ・ショーにてミウラが披露される。後になってジウジアーロは、そのデザインがビッザリーニのプロジェクトのために彼がベルトーネに残した初期レンダリングに基づいていると主張した。いずれのデザインの背景にもそれぞれの物語があって、それについてはひとまず傍に置くとしょう。

どちらの主張に与するにせよ、ひとつだけ明らかなことがある。それはオリジナルのP400デザインは凄まじくセンセーショナルであったということだ。同時にそれはフェルッチョにとって頭痛の種となる。

・・・【後編】に続く。

編集翻訳:西川 淳 Words:Jun NISHIKAWA

Words:Richard Heseltine Photography:Stephane Abrantes