指定暴力団に密着した『ヤクザと憲法』、ミニシアターで異例の観客動員28万人超を記録した『人生フルーツ』、自局の報道部にカメラを向けた『さよならテレビ』など、社会的に高く評価され、大きな話題を呼んだドキュメンタリー作品を制作してきた東海テレビの阿武野勝彦プロデューサーが、1月末で同局を退社した。局員として最後のプロデュース映画『その鼓動に耳をあてよ』が、東京・ポレポレ東中野ほか全国で順次公開され、退社後の2月10日(14:15~ ※東海ローカル)に最後のテレビ作品『いもうとの時間 名張毒ぶどう酒事件 裁判の記録』が、仲代達矢のナレーションで放送される。
東海エリアで放送を終えたテレビ番組に映画という形で再び命を吹き込み、全国の人たちに作品を届ける「東海テレビドキュメンタリー劇場」は第15弾となるが、この取り組みに熱い視線を送り続け、「ここまで来たんだね」と感慨を述べるのは、作家の重松清氏。そんな同氏が、新たなスタートを切った阿武野氏に、東海テレビドキュメンタリーの真髄やテレビの現状と今後、そして今後の活動まで、様々なテーマで切り込んだ――。(第1回/全2回)
経営トップとの考え方の相違で…
重松:『その鼓動に耳をあてよ』は、東海テレビの人間として最後の映画作品になると意識して企画したのですか?
阿武野:それは全く考えていなかったんです。20作品ぐらいまで公開して、海外展開も考えていました。これまでの作品は半分以上が英語化されているので、全部英語化して世界に出して、日本のドキュメンタリーの面白さが逆輸入されてスポットライトが当たるという構図です。そのためにもう少しやれるかなと思ったんですけど、東海テレビの経営トップと私の考え方がずいぶん違ってたんで(笑)、(樹木)希林さん(※)も「時が来たら、誇りをもって脇にどけ」とおっしゃっていましたし、誇りをもって仕事ができないなら、これは脇にどくタイミングなんだと思って、辞めることにしました。
(※)…樹木希林さんは、東海テレビのドキュメンタリーに数多く携わってきた。映画では『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』『神宮希林』に出演、『人生フルーツ』でナレーションを担当している。
重松:なるほど。サラリーマンとしての晩年にあたるこの数年間、新型コロナによって、やろうと思っていたことができなかったりしたことはありましたか?
阿武野:ほとんどなかったですね。ただ1つだけ、演劇をずっと名古屋でやってきた老夫婦の晩年を描こうと思って、当初は家の中にも入っていたんですけども、コロナ禍に老夫婦のところへスタッフが出入りすることにご家族の懸念もあって、それができなくなったんです。そのうちに主人公が亡くなってしまいました。いくつかニュース企画にして放送はしましたが、番組化はできませんでした。
重松:あと数年の時間があれば、新型コロナの感染者に対する差別や偏見といったところも含めて、総括して描けるということも視野に入っていましたか?
阿武野:それは考えてなかったですね。コロナを描くということでは『その鼓動に耳をあてよ』がそのものです。これからも名古屋掖済会(えきさいかい)病院との付き合いが深まっていくと思うので、その途上で出てくる題材なのかなと思いますね。
重松:これまでの「東海テレビドキュメンタリー劇場」の作品を観てきて、一貫しているものがいっぱいあると思うんです。その1つの大きな主題が、「司法シリーズ」が分かりやすいですが、“公”であるものと“私”であるもののぶつかり合いではないかと。一方で、テレビ局は組織でありながら公じゃない、私性を持ちながらフリーでもないですよね。そんな“私以上、公未満”の媒体がドキュメンタリーを作るということの意味を、どのように捉えていましたか?
阿武野:やっぱり自分の中では最後の最後まで会社員でしたので、“組織と個人”という問題があり続けたんだと思います。組織人ではあるけれど表現者ですから、その組織を超えて外から見て“これはいかんよ”というものは描こうとする。しかし、組織の中にどっぷり浸かっている人間からしてみると、裏切り者という視線で見られる。それが『さよならテレビ』が内包している組織と個人の問題だと思います。
組織の中で、「自分は何なのか」「私たちはどう働いていけばいいのか」という問いに対して、ディレクター、カメラマン、編集マンみんな違う考え方を持っていると思うんですけども、やっぱり報道マンという社会的存在であることは間違いない。この社会を少しでも生きやすい世の中にするために、何かメッセージを出していく必要があるし、そういう存在でありたいのですが、組織にとっては面倒くさい存在になっちゃうっていうことがあるんですよね。
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『さよならテレビ』
テレビの現場で何が起きているのかを探るため、東海テレビ報道部にカメラを入れて取材した作品。撮影開始当初から社内でハレーションを引き起こし、東海エリアで放送されると番組を録画したDVDが密造酒のように映像制作者の間に出回った。
(C)東海テレビ放送
ドキュメンタリーにおけるプロデューサーの役割
重松:阿武野さんはアナウンサーとして入社され、ディレクターや営業もやられて、最終的にプロデューサーという立場になりました。ドキュメンタリーにおいては、自分がカメラを回すディレクターのほうが撮りたいものが撮れて、隔靴掻痒(かっかそうよう)にならずに済むとも思えるのですが、プロデューサーの立ち位置というのはどのように意識されていたのですか?
阿武野:もともと僕がディレクターの時代は、プロデューサーがいなかったんです。プロデューサーの不在によるやりやすさは確かにあったのですが、テレビを取り巻く時代は大きく変わりました。会社の中の縦割りもあるし、外の人たちの個の意識も変わってきて、取材者に対して「なんでそんな扱い方したんだ」というようなクレームも増えてきたので、煩雑なものをなるべく少なくする役割として、プロデューサーが必要だと思います。
重松:食い止めるという感じですか。
阿武野:そうですね。どうやって作りやすい環境を整えてやれるかというところから、プロデューサーの仕事が始まるんだと思います。まず、長い時間をかけて自由に取材できるという環境を確保するために、プロデューサーが立つ。その後は、画を観る力のあるディレクターだったらそこに口を出さなくていいですし、ナレーションが上手なディレクターならば僕が書く必要もない。組んだスタッフによって足りないところを補い合う中で、自分の形を変えていく。それはプロデューサーだけじゃなくて、ディレクターにもカメラマンにも編集マンにもタイムキーパーにも、それぞれのスタッフワークの中で「自分の形を変えていこうよ」と呼びかけながらやってきた仕事なので、ある時は半分ディレクターみたいなことやったり、ある時はものすごく働かないプロデューサーだったりするような立ち回りをしていました。
重松:伏原(健之)さん(『神宮希林』『人生フルーツ』)、齊藤(潤一)さん(『平成ジレンマ』『死刑弁護人』『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』『眠る村』『おかえり ただいま』)、土方(宏史)さん(『ホームレス理事長 退学球児再生計画』『ヤクザと憲法』『さよならテレビ』)といったディレクターの皆さんの作品にはそれぞれの属人的なものがあるけど、それをまとめて“東海テレビのドキュメンタリー”という一つのブランドが出来上がったのは、やっぱり阿武野さんの存在が大きいと思うんです。例えるなら、原酒を集めて調合するブレンデッドウイスキーのブレンダーみたいに、この15本の作品群を作っていったんじゃないかと思うのですが、いかがですか?
阿武野:ものすごくうれしいお言葉なんですけど、作ってみた結果こうなったというのを繰り返しただけで、自分の色に染めようとか、“東海テレビ的なものを作ろう”とかは全くなくて、“東海テレビ的なものは何だろう”ということすら考えたことはないんです。作品づくりを重ねていくうちに、ディレクターもカメラマンも編集マンも一本一本番組を創ることで、磨かれていく。それを伴走者のように横で見ているというのを繰り返しているうちに、劇場公開が15本まで来たという感覚です。