――入院後はお見舞いによく行かれたのですか?
はい。12月にはカズとりさちゃん(三浦知良・りさ子夫妻)も連れて行って、そのときカズが日本代表の11番のユニフォームを持ってきてくれたんです。「逸見さんに僕のパワーを送るから」と言って、それは亡くなるまでずっと病室に飾ってありましたね。
――そして、クリスマスにその時を迎えてしまいます。
24日のイブに「そろそろ危ないぞ」という知らせが(逸見さんの所属する三木プロダクションの)三木(治)社長から来て、夜中の12時くらいに駆けつけました。逸見さんは意識がもうろうとし始めていたんですが、握った手が熱かったんです。もうあの声を聞くことはできませんでしたが、“まだやりたいことがいっぱいあるんだ”と必死に訴えてきているようで、あの目は今でも忘れられない。
それからずっと病院にいて、1回病室を出て、その間に亡くなられて。また病室に入って、奥さんや(娘の)愛ちゃんから、うわ言で「正解は3番」と言っていたという話を聞きました。
――亡くなった後は、追悼番組が放送されました。
生放送でやって、もう一生であんなに泣いたことがないというくらい、スタッフみんなが抱き合って号泣しました。それくらい、ものすごく大きな存在だったんですよね。
もし逸見さんが生き続けていたら…
――逸見さんが亡くなってから、ご家族と交流はあるのですか?
そうですね。愛ちゃんとは今でも年に1回くらい食事をして、帰りは逸見さんの夢だった世田谷の自宅に送っていくんです。その途中、僕が話しながら泣いちゃって、それを見て愛ちゃんも泣くというのが、いつもですね。
――逸見さんは亡くなりましたが、その魂というのは小杉さんに引き継がれていたのでしょうか。
僕はやっぱり番組を愛して、しかもフェアで、でもどこかで先ほど言った記者会見の後の「これ数字とってるね」というような冷めた目線を持っている部分は、引き継いだ気がしていますね。
人生にifというのはありませんが、もし逸見さんが生きてらっしゃったら、こと自分に関しては、バラエティからドラマに異動(※)することはなかったと思います。逸見さんと3本レギュラーをやって相当ハモっていたので、人事異動で自分が動くことはなかったと思うんです。
(※)…小杉氏は逸見さんの逝去後、94年にドラマ班に異動し、チーフプロデューサーとして『家なき子』『金田一少年の事件簿』『星の金貨』『恋も2度目なら』を手がけた。
――その後、編成や営業、関連会社にも行かれ、様々な業務を経験されたことで社長まで務められることになったのは、逸見さんがどこかで背中を押してくれていたのかもしれませんね。
