俳優のオダギリジョーが主演・プロデューサーを務めるドラマ『僕の手を売ります』(FOD、Prime Video/全10話、第1話無料)。就職氷河期世代で大失敗し、多額の借金を抱えた主人公・大桑北郎(オダギリ)が、全国各地をプロアルバイターとして多種多様な仕事をしながら津々浦々を駆け巡り、借金返済のために明け暮れる唯一無二、ユーモラスなロードムービーだ。

オダギリと言えば、映画『バナナの皮』、『さくらな人たち』、『ある船頭の話』に、ドラマ『帰ってきた時効警察』(第8話)、『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』を監督するなど、クリエイティブ面でもその才覚を発揮している。近年、山田孝之、のん、斎藤工、池田エライザ、桃井かおり、黒木瞳、浅野忠信、津川雅彦、田口トモロヲ、小栗旬、黒木瞳、津田健次郎、柄本佑、森山未來、磯村勇斗らも監督業に進出しているが、こうした俳優兼クリエイター化現象はなぜ起こっているのか。オダギリに聞いた――。

  • 『僕の手を売ります』主演・プロデューサーのオダギリジョー 撮影:蔦野裕

    『僕の手を売ります』主演・プロデューサーのオダギリジョー 撮影:蔦野裕

■監督の気持ちに寄り添うように

――俳優が監督やプロデュース業を行うというのは過去や海外でもあったのですが、昨今特に多く見受けられるような気がしています。これはなぜだと思われますか?

時代的なものもあるとは思いますけどね。フィルムからデジタルに移行したことも撮りやすさにつながったでしょうし、スマートフォンの普及やSNSなど、表現の場が広がったことも、気軽に映像を作れる手助けになりましたよね。そういう意味では、俳優に限らず、全般的に垣根が下がったと言えるんじゃないでしょうか。

その中でも、俳優の立場で言わせていただくと、まず俳優はやっぱり役を“頂く”仕事なんです。ひとつの役に集中する職人のようなもので、作品作りには関わらない。ですが主役ともなると責任も重くなりますし、世の傾向として、作品の数字が良くなければ主役にその責任を背負わせる事象もまま起こりますよね。お願いされた役を懸命に演じただけなのに、矢面に立たされるわけです。であれば、責任を負うに値する立場で作品に関わりたいと思うようになるのは、自然な感情ではないでしょうか。

自分も基本的にはそうだったと思いますが、少し違うのは、もともと作りたい願望が強くあったんです。今ではそのやり方は間違っていたのではないかと思えるのですが、若いときから脚本に意見したり、芝居を即興的に膨らませたりと、自分のアイデアを前面に出していくことが多くて……。

――口を出しすぎてしまった…? でも、それはすり合わせでもあるのでは?

よく言えばそうなのですが、僕のアイデアを取り入れていただくことで最悪の場合、もともと作りたかったものが歪んでいくこともあるじゃないですか。逆にそれを楽しんでくれる作り手もいるので、一概にダメなこととも言い切れないんですが。良かれとは思いながらも、場合によっては制作陣から扱いにくいとも思われる…。そのうちある頃から、自分がやりたいことと、すべきことの間で悩むようになっていったんです。

――それはいつ頃からですか?

30歳を越えてぐらいからですね。だったら、自分がやりたいことや作りたいものは、全ての責任を負って自分で作ろうと考えていったんです。自分で企画を上げて、脚本を書いて、監督すれば良いわけじゃないですか。その責任を負うのは本望ですよね。

――なるほど。では、クリエイティブと演技面とのバランスを取ることでストレスは軽くなったのでしょうか?

どうでしょうね。でも、監督の気持ちに寄り添うようになったと思います。前だったら「えっ、いやいや無理でしょう」みたいな演出に対しても、監督がそれをやってみたいと言うのであれば「とりあえずやってみましょうか」と歩み寄る感じになりましたね。

  • オダギリジョー

■世に問う「覚悟」を持って戦うことも必要

――そういったお人柄だからでしょうか。オダギリさんからは以前より、独特の存在感やセンス、色を感じていました。ある種の自己プロデュースの上手さだと想像しているのですが、それに関してはいかがですか?

“わがまま”なんですよ(笑)。でも同時に気も小さいんです。気が小さいから自分のわがままを通すためにすごく気を遣うんです。結局、自分の色を感じてもらうには、ある程度のわがままを押し通す必要があると思うから、周りとの衝突を最小限にしながら、やりたいことを曲げない、といったバランスを取ろうとはしています。

――昨今はコンプライアンスが厳しくなったこともあり、無難なものであるとか、クリエイターや表現者のオリジナリティ、尖った才能のようなものが見られる作品が少なくなっているんじゃないかと、私個人的に考えているんです。そんな今の時代、おっしゃっている“わがまま”というのは重要なファクターになってくるように感じるのですが。

おっしゃる通りかもしれません。だとすれば、それはすごく寂しいですよね。コンプライアンスという気遣いが大き過ぎて、わがままを通せないということでしょうから、バランスがうまく取れていない状態ですよね。たとえ簡単に叩かれる時代だとしても、叩かれることを恐れて表現しないことを選ぶのは、本末転倒ですからね。それでも作り、世に問う「覚悟」を持って、戦うことも必要なのではないでしょうか。