日本人選手のメジャーリーグ(MLB)での活躍は、いまや珍しくない。それどころか、ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平は”二刀流“でMLBの中心的存在となっている。WBCでも今年、3度目の優勝を果たすなど日本野球のレベルは急上昇した。
だが終戦直後の20世紀半ば、日米の野球には大きな実力差があった。そんな状況下の1949年秋に米国プロ野球チーム「サンフランシスコ・シールズ」が来日。当時大学4年生の関根潤三がシールズ相手に快投、日本中を熱狂させた─。
■マイナーチーム「シールズ」に6戦全敗
終戦から4年が経った1949年秋、米国からプロ野球チームがやってきた。
MLB球団ではない。マイナーリーグのチーム「サンフランシスコ・シールズ」。
それでも当時は、米国プロ野球にメジャーとマイナーがあることが広く知られていたわけではない。戦後初の「野球日米対決」が開かれることで日本中が大変な騒ぎになった。
力道山、木村政彦がシャープ兄弟とプロレスを行い、街頭テレビの前に人だかりができたのが1954年。その5年も前の話である。
「米国をやっつけろ!」
「戦争では負けたが、これから日本は立ち上がるんだ!野球でも負けんぞ!」
活況を呈し、球場のスタンドは満席に。集まったファンの熱狂的声援を背に日本チームは果敢にシールズに挑んだ。しかし結果は、6戦全敗。
マイナーリーグにもかなわない。それが当時の日本野球のレベルで、スコアは以下の通り。
▶第1戦/10月15日・後楽園球場、13-4巨人●
▶第2戦/10月17日・神宮球場、4-0全東軍●
▶第3戦/10月21日・西宮球場、3-1全西軍●
▶第4戦/10月23日・甲子園球場、2-1全日本●
▶第5戦/10月27日・中日球場、13-4全日本●
▶第6戦/10月29日・神宮球場、1-0全日本●
だが、「野球日米対決」はこれだけでは終わらなかった。
急遽、追加試合が組まれる。
第6戦の翌日10月30日、後楽園球場で「六大学(慶應、早稲田、明治、法政、立教、東京)選抜チーム」が、シールズに挑むことになったのだ。
(プロ野球チームが勝てないのに、大学生が試合をしても…)
そう思われる方もいるかもしれない。だが、当時の六大学野球の人気は凄まじく、実はプロ以上の盛り上がりを見せていた。
「六大学なら勝てるかもしれない」
「そうだ、彼らなら米国をやっつけてくれる」
そんな期待が寄せられる中、六大学選抜チームはシールズと闘った。
■「いつ代えてくれるんだ…」
六大学選抜チームの先発投手としてマウンドに上がったのは、法政大学のエース関根潤三。
生前に当時を振り返り、彼はこう話していた。
「あの時は(六大学の)リーグ戦の終盤で法政は優勝争いをしていました。2日後に明治との大切な試合があったんです。でも選抜チームの監督になった藤田(省三、法政大学監督)さんから『お前が行かなきゃしょうがないだろう』と言われてね。
でもチームには、六大学のエースが集まっている。自分は3回投げればいいんだろうと思ってマウンドに上がったんです」
初回、先頭打者にフォアボールを与えた関根は、その後に2本のヒットを打たれ2点を許した。それでも2、3回は「0」に抑える。
「ベンチに戻って、これで交代と思っていたら誰も何も言ってくれない。藤田さんもソッポを向いている。それで『5回まで投げるのか』と思って4回もマウンドに行きました」
3回裏に六大学選抜が2点を取り同点。緊迫した試合展開となる。
「5回が終わっても、藤田さんは私の方を向いてくれない。それどころかチームメイトが『絶対に負けないぞ!』と殺気立っている。妙な緊張を感じながら私は投げ続けました。いつ代えてくれるんだ、そう思いながら」
9回が終わった時点でもスコアは2-2のまま。試合は延長戦へと突入する。
関根は、マウンドに立ち続けていた。そして迎えた13回表、内野手のエラーからが生じたピンチの場面で関根は打たれ2点を失い、2-4でシールズに敗れる。
「周囲は凄く悔しがっていましたよ。でも私は、ただただ疲れ切っていた。そして、思いました。2日後にリーグ戦の大切な試合があるのに、どうして藤田さんは、私を最後までマウンドに立たせたのだろうって」
後日、関根は藤田にそのことを尋ねた。
すると彼は、こう答えたという。
「俺だって代えたかったよ。だけどもう、皆が殺気立っていたんだ。六大学の監督が入れ替わり立ち替わり俺のところに来て言う。『今日の試合は絶対に負けられない、そのためには関根を代えちゃ駄目だぞ!』って。仕方なかったんだ」
2日後の六大学リーグ戦大一番、関根は先発するも疲れ切っていて思うような投球ができず法政は明治に敗れ優勝を逃している。最後のシーズン、有終の美を飾ることはできなかった。
それでもシールズ打線を苦しめたことで関根の評価は急上昇。米国チームを相手どっての関根の快投は、後々まで語り継がれることになる。
だがこの頃、彼はプロの道に進もうとはまったく考えていなかった─。
<次回、『関根潤三が生前に明かした「近鉄パールズ」入団の経緯─。そして野球人生における2つの「後悔」。』に続く>
文/近藤隆夫