関根潤三が他界して3年余りが経つ。ヤクルトスワローズの監督、解説者としての「温和な爺や」の雰囲気が深く記憶に残る。そして若き日の彼は、法政大学のエースであり「六大学の貴公子」と称される花形選手だった。

  • 関根潤三が生前に明かした「近鉄パールズ」入団の経緯─。そして野球人生における2つの「後悔」。

    近鉄パールズ創立当時の主力投手陣。左から関根潤三、田中文雄(武智文雄)、沢藤光郎(写真:『近鉄バファローズ大全』)

卒業後は、創立されたばかりの近鉄パールズ(後に近鉄バファローズ、2004年に消滅)に入団し投打で活躍する主力選手に。だが「本当はプロにいくつもりはなかった」と関根は話していた。プロ入りの経緯は? また、彼が口にした「2つの後悔」とは?

■「お前も来い!」と恩師から言われて

「本当はプロへ行くつもりはなかった。八幡製鐵所へ行くことに決めていました。ノンプロとして3年くらい野球をやった後、そのまま就職して会社員になる。そのつもりでした。大きな会社への就職が決まり両親も喜んでくれていたんですよ。
それに当時のスポーツはアマチュアが基本、『野球でお金を貰うとは何ごとだ!』という風潮があったからね。野球は好きだったけど、男子一生の仕事とは思えなかった」

2013年春、当時86歳だった関根潤三は川崎日航ホテルのラウンジで、法政大学卒業時を振り返り私にそう話した。
だが卒業間際に状況が変わったようだ。関根は、新球団「近鉄パールズ」のユニフォームに袖を通すことになる。

「(法政大学の監督だった)藤田省三さんに呼ばれて言われたんです。『俺は来年から近鉄の監督になる。お前も来い!』って。
驚いたし困りましたよ、もう就職が決まっているのに。でも、藤田さんは日大三中(旧制日本大学第三中学校)時代からお世話になっている恩師です。誘いを断ることはできない。その場で『はい』と答えました」

いまとは違い、プロになることが野球少年たちの憧れではなかった。そのため新球団の近鉄パールズは選手集めに四苦八苦。ようやく25選手を集めるが、そのうちプロ経験者はわずかに6人(森下重好、山本静雄ほか)、あとの19人は高校、大学、ノンプロからの入団だった。六大学のスター選手だった関根は、いきなり主力扱いで契約金も破格の80万円。まだ100円札しかなかった頃の話、いまなら8000万円相当、いやそれ以上か。加えて会社員の給料が数千円だった時代に、月収5万円以上も保証されていた。

「藤田さんから聞かされて、こんなに貰っていいのかと思いましたよ(笑)。それもいけなかったのかな、当時の私はプロを舐めていました。『まあ、何とかなる。いつも通りに投げりゃいいんだ』くらいの気持ちで緊張感もまったくなかったんです。
だから宇治山田(三重県)でのキャンプにもほとんど参加していません。卒業試験や卒業式を口実にして、チームに加わったのは開幕の10日前くらいでしたから」

  • 近鉄パールズ球団創立時のメンバー。3列目右端が関根潤三(写真:『近鉄バファローズ大全』)

■「ミスターに恥をかかせてしまった」

関根は、カラダづくり、コンデション調整を怠った状態でシーズン開幕を迎えた。そして開幕3戦目で先発投手としてマウンドに上がりプロデビューを果たすも、野球人生にいきなり暗雲が立ちこめる。
「最初の試合は、7回に打ち込まれてKOされました。次の登板は後楽園球場、リリーフでマウンドに上がり相手打線を抑えて勝ったんです。でもその翌日に、肩が大変なことになっていた。痛くてボールが投げられない。そんな経験は初めてでした。大学時代は連投しても平気だったのに。カラダの準備を怠ったせいです。
数日休んで痛みは消えたけど、違和感は残ったまま。何とか投げられるようにはなりましたが、もう大学生の時のような納得のいくストレートは放れなかった」

4勝12敗、防御率5.47。 これが関根の1年目成績である。チームもパシフィック・リーグ最下位に沈んだ。
「情けなかった、藤田さんにも申し訳なかった。あそこからですね、私が真面目に野球に取り組んだのは。もう威力のあるストレートは投げられない。じゃあ、どうするのか? まず変化球を習得し、その後に打者のタイミングを外すことを考えた。次の年はキャンプでも必死に練習しました。それで何とか勝負できるようになったんです」

翌年には開幕投手を務め、4シーズン目の1953年からは3年連続して二桁勝利をマーク。オールスターゲームにも出場(53年)するなどの活躍で汚名を返上した。しかし、57年シーズン開幕直後に投手としての限界を感じ、野手に転向している。

  • 近鉄パールズのユニフォーム。1952年まで使用された(写真:『近鉄バファローズ大全』)

「野球に感謝しています。それしかありません。長き間、私はずっと野球に接して生きてきました。もし野球がなかったら私はどうなっていたのか、想像がつきません。
それでも後悔が2つある。ひとつはプロ入り早々に肩を壊したこと。あれは自分の考えの甘さがすべてだった」

間を置いて関根は続けた。
「もうひとつは、ミスター(長嶋茂雄)に恥をかかせてしまったこと」
1975年、現役引退直後に長嶋は読売ジャイアンツの監督に就任した。そこでV9を誇ったチームが、まさかの最下位に沈む。その時のヘッドコーチが関根だったのだ。
関根は、長嶋よりも9歳年上だが、二人の絆は深かった。

2020年4月9日、都内の病院で関根は生涯を終える。老衰、享年93。
いつも温和な表情で口調も優しかった。だが時に鋭い眼光を放っていたことが強く印象に残る。
忘れ難き、愛すべき、昭和の野球人─。

文/近藤隆夫