大谷翔平の勢いが止まらない。WBCでの「日本優勝」に貢献した後、疲れを見せることなくMLB(メジャーリーグ)ロサンゼルス・エンジェルスで"二刀流"の活躍を続けている。 そんな大谷のプレイを観ながら、ひとりの男の勇姿が蘇える。
日本プロ野球2リーグ創成期、1950年に誕生した近鉄パールズ(後の近鉄バファローズ/2001年に消滅)に入団した関根潤三。晩年はヤクルトスワローズの監督、また解説者として「温和な爺や」のイメージが強い関根だが、現役時代は投打で活躍する元祖"二刀流"プレイヤーだった─。
■投手で65勝、打者で59本塁打
「僕はピッチャーとして近鉄に入団したけど、実はずっとバッティングの方が得意だった。というのも、自分の考えの甘さから1年目に肩を壊し、プロになってからは納得のいくボールを投げられなかったから。
バッターに転向する前から、先発で投げない日には、野手として試合に出たことも何度もありました。でも"二刀流"と呼ばれるほどカッコいいものじゃない。どちらも大した成績は残せていない。中途半端でしたね」
生前、正確には2013年の春、当時86歳の関根潤三は穏やかな表情で私にそう話した。
「どちらも中途半端」は、もちろん謙遜だ。
日本プロ野球において、投手、野手の両方で「オールスターゲーム」に出場した選手は二人しかいない。ひとりは誰もが知る大谷翔平。そしてもうひとりが、20世紀半ばに活躍した関根潤三なのだ。入団4年目の1953年は投手で、また59、60、62、63年には野手として5度もパシフィック・リーグ代表に選出されている。
1950年に法政大学からプロ入りした関根は、近鉄で15年、巨人で1年の計16シーズン、選手として活躍した。入団から56年までの7シーズンは投手として、57年以降は野手として─。
通算成績は次の通りだ。
<投手>65勝94敗、防御率3.43、投球回数1345イニングと1/3、完投数87。
<打者>打率.279、59本塁打、424打点、30盗塁、打席数4509。
タイトルには無縁だったが、長きにわたり関根は近鉄の主力選手であり続けた。
「あれはプロ8年目が開幕して間もない頃のこと。平和台球場での西鉄ライオンズ戦で滅多打ちにあった。西鉄には、それまで相性が良かった分、ショックでね。それで、手を焼かせていた監督の芥田(武夫)さんに言った。『もう駄目、ピッチャーはやらない。限界を感じました』って」
その時、芥田は一瞬、驚いた表情をしたという。それでも冷静な口調で関根に言った。
「じゃあ、これからどうする?」と。
「バッターに転向します」
「そうか、わかった」
「えっ、本当にいいんですか」
「大丈夫だろう。何番を打ちたい?」
「クリーンアップがいいです」
「わかった」
■大谷の活躍を予言していた
次の阪急ブレーブスとの3連戦から関根は「5番ライト」で試合に出場するようになった。 そして、いきなりの固め打ち。3試合で8安打を放ち、そのうち1本はスリーラン・ホームラン。これにより、転向直後から関根は野手としてレギュラーに定着したのである。
「振り返れば、私は随分とわがままな選手でした。それを許してくれた指導者たちに、とても感謝しています。芥田さんには随分と逆らった。その前の監督が、私の恩師である藤田省三さん。藤田さんがチームを追い出されたように感じていたから、反発もあったんです。でも芥田さんは私に気を遣ってくれた。だから、投手も野手もでき長く現役生活を続けられたと思います」
関根は、打者に転向する前も2度、3割以上の打率をマーク、ルーキーシーズンには4本塁打も放っている。規定打席に達したことこそなかったが野手としての出場機会も多く"二刀流"として活躍したことは間違いない。
「それは当時の選手層が薄かったからです。私が入団した時、近鉄には選手が30人弱しかいなかった。もちろん2軍なんてない時代。だから藤田さんから先発して完投した翌日に『関根、今日はライト守れ!』と言われることがよくあった。それだけのこと(笑)。」
関根潤三と長く話した時は、大谷翔平が北海道日本ハムファイターズに入団した時と重なる。私は尋ねた。
「大谷は"二刀流"としてプロで活躍できるのだろうか」と。
間を置かずに彼は口を開いた。
「できますよ。彼の体力があれば大丈夫。投げるのも打つのもカラダの使い方は同じだから。大変だけど、それに耐えうる体力があればできる。みんなやらなかっただけで、これまでだって挑めばできた選手は何人もいたと思っています」
そして、彼は続けた。
「あのね、できないと思い込んでしまったら、もうできない。でも、できると信じて貫けばできてしまうんです、それだけのこと。大谷君ならできるんじゃないかな」
メジャーリーグでの大谷の"二刀流"の活躍を、関根はいまも天国から温かく見守っている。
<次回、『WBCで大谷翔平が活躍する74年前、米国プロチームを苦しめた大学生投手がいた─「法政のプリンス」関根潤三』に続く>
文/近藤隆夫