「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」という冒頭のフレーズが有名な、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』。

本記事ではこの『雨ニモマケズ』について、ひらがなと漢字に変換した全文や、カタカナの原文を紹介します。この詩が生まれた背景や込められた意味、なぜ原文はカタカナなのかや、宮沢賢治とはどんな人だったのかについてもまとめました。

  • 『雨ニモマケズ』の全文をひらがなと漢字で紹介

    『雨ニモマケズ』の全文をひらがなと漢字で紹介する他、意味などもまとめました

『雨ニモマケズ』の全文をひらがなと漢字で紹介

『雨ニモマケズ』はもともとはカタカナと漢字で記載されています。まずは、全文をわかりやすいようにひらがなと漢字に変換したものを紹介します。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決していからず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し※
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

※「日照り(ヒデリ)」の部分は、後に紹介するようにカタカナの原文では「ヒドリ」です。次の文の「寒さの夏」との対比だとすると「ヒデリ」の誤字であると考え、本記事では「日照り(ヒデリ)」としています。

『雨ニモマケズ』の全文をカタカナの原文で紹介

次に、もともとの形であるカタカナと漢字の原文を紹介します。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

作者である宮沢賢治とは

『雨ニモマケズ』の作者である宮沢賢治は、1896年(明治29年)に岩手県の稗貫郡花巻川口町(現・花巻市豊沢町)に生まれ、1933年(昭和8年)に37歳の若さで病により亡くなりました。

質古着商の長男として生まれた宮沢賢治は、浄土真宗の信仰の中で育ちましたが、中学卒業後に法華経(日蓮宗)の熱心な信者となります。詩人や童話作家、教師、科学者、農業研究家、宗教家など複数の顔を持っていました。

宮沢賢治は現在では、信仰に基づく壮大な宇宙観、農業や自然に対する思い、人間愛などから成る独自の作風が、多くの人に評価されています。しかし実は、生前に発行された著書は2冊だけで、当時は作品が認められることはほとんどありませんでした。

父との対立からの家出や愛する妹の死、自らの病との闘いなど、苦労の多い人生だったといわれています。

『雨ニモマケズ』の基本情報や、込められた意味とは

『雨ニモマケズ』は、作者である宮沢賢治の死後に発見された詩です。1931年(昭和6年)の11月の手帳にあったこの詩は、病床に伏し、自らの死を覚悟した宮沢賢治が記したものでした。

『雨ニモマケズ』で語られる人物は、自分を律し真面目で、他人に対し優しい気持ちを持つだけでなく、実際に行動できて、時に挫折しそうになりながらも、前を向いて歩いて行く人です。

「そういう者に私はなりたい」というフレーズには、「本当の幸せとは何か」を考え続けた宮沢賢治の、生涯の願いが込められていると言えるでしょう。

『雨ニモマケズ』はなぜカタカナで書かれているのか

『雨ニモマケズ』の原文が、ほとんどカタカナで書かれていることを不思議に思った人もいるでしょう。

現在私たちは小学校で、カタカナよりもひらがなを先に習いますね。カタカナは主に、外来語や擬音語などのみに用い、ひらがなと漢字をメインに使用しています。

しかし明治時代から第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)までは、小学校ではカタカナを先に学んでいました。当時の教科書にもカタカナが多く使われています。

『雨ニモマケズ』が記されたのは1931年(昭和6年)のことなので、カタカナで記されているのも自然なことだったのです。

「雨にも負けず、風にも負けず」の精神を持って、前向きに進んでいこう

『雨ニモマケズ』は、病床に伏した宮沢賢治が記した詩です。読めば読むほどに、自分の今までの言動を省みさせてくれるような、奥の深い文章です。

自分を変えるのはもちろん簡単なことではありません。しかしこの詩のように、自分の理想を胸に抱き、そうなれるよう、前向きに進んでいくことが大切なのかもしれません。