機械式の時計には人を惹き付ける不思議な魅力がある。これほど人を夢中にする精密機械はほかにない。もしかしたら人の脳には、この特別な機械に反応せずには居られない部分があるのでは。

時計について30年近く時計の取材を続ける中で、私はそう考えるようになった。

■機械式に“ひと目ボレ”

私が時計に本格的に興味を持ったきっかけは1990年代初めに、当時勤めていた出版社で小説部門からモノ情報誌の編集部に異動したことだった。それからは取材という仕事をとおして、自然と「時計」とかかわることになったのだ。

そしていきなり興味が湧く瞬間がやってきた。それは編集部に入って最初に表紙のスタジオ撮影に立ち会ったときのこと。私は撮影されていた表紙の「主役」だった時計に特別な「何か」を感じたのだろう。その時計が欲しくてたまらなくなり、その場で「これ、買い取ります」と宣言してしまったのだ。

それは「ブライトリング」の機械式時計。手巻きのクロノグラフ『ナビタイマー コスモノート』という、24時間ダイヤルのクロノグラフだった。

ふつうの時針は12時間で文字盤を1周する。『ナビタイマー コスモノート』は、分針の動きこそ60分で1周とふつうの時計と同じだが、時針は24時間で1周する。だから文字盤のアラビア数字のインデックスも12個ではなく24個ある。だから普通の時計とは時針の動きが遅く、変わった位置にある。

  • 見た瞬間に欲しくなって購入した『ブライトリング ナビタイマー コスモノート』の1990年代モデル。非防水で搭載されるクロノグラフムーブメントは手巻きの「レマニア 1873」の24時間表示版「1877」。針は正規オーバーホールの際、新しいものに交換されている。

なぜこうなっているのか。それはこの時計の出自にある。
1962年5月24日に行われた、アメリカの航空宇宙局(NASA)の「マーキュリー計画」の4回目の飛行、愛称「オーロラ7」。『ナビタイマー コスモノート』は、そこに搭乗した宇宙飛行士スコット・カーベンター氏が、アメリカのブライトリングの代理店に特注したものだったからだ。

時計好きのカーペンター氏は「宇宙で使う時計は、ミッションのタイムテーブルと同じ24時間制に対応した24時間表示がいい」と考えた。そして12時間表示文字盤の「ナビタイマー」をベースに、この時計が生まれた。やがて、この時計は「宇宙で使われた最初のスイス製ウォッチ」として歴史に名を残すことになった。

ナビタイマーはベゼルと文字盤の外周部に3種類の計算尺機能が搭載されていたが、カーペンター氏は視認性を高めるために2つにした文字盤をオーダーした。この時代、クロノグラフはすべて手巻き。また、パイロット用の時計は気圧の変化で壊れないように防水性を持たせないのが普通だった。私が購入した1990年代始めのモデルも、当時としては異例の非防水だった。

  • 24時間表示の『コスモノート』の生みの親、スコット・カーペンター宇宙飛行士(上)©NASAと1964年の広告。

■時計といえばクォーツ式

私が初めて「自分の時計」を持ったのは中学生のとき。それは叔父が使っていた、シルバー文字盤で日付と曜日の表示機能付きの薄型自動巻きモデル、セイコーの『ロードマチック』だった。

そして1970年代後半、私は高校に入学したときに、地元の老舗時計店で両親に本格的なダイバーズではない、やはりセイコーのクォーツ式で、当時4、5万円と高価だった5気圧防水の『シルバーウェーブ』というスポーツウォッチを買ってもらった。そして高校、予備校、大学と、ずっとその時計を使っていた。

私が高校生だった1970年代後半、当時最先端で人気の腕時計といえば精度が機械式よりも格段に高いクォーツ式だった。だから私はその時計が少し自慢だった。

クォーツとは「水晶」のことで、クォーツ式のムーブメントの中には、音叉型にカットされた水晶を真空のケースに封入した「水晶振動子」という部品が封入されている。この部品に電流を流すと規則正しく振動(一般的には1秒間に32,768Hz=3万2768回)する。

クォーツ式はこの振動を電気信号として検出し、電子回路で1秒を定義。それに合わせてステップモーターに電流を流して1秒間隔で針を正確に動かす。

現在、一般的なクォーツ式の精度は月差、つまり1カ月の時刻の進み遅れはプラスマイナス15秒程度。これに対して1969年から1970年代半ばまで販売された、機械式で最高峰の精度を実現した『グランドセイコー V.F.A.』の精度は月差プラスマイナス60秒。

つまり日差(1日当たりの時間精度)にするとプラスマイナス1秒だ。しかもこれは名人級の時計技術者が長い時間をかけて入念な調整を施して実現した高精度。一般的な機械式時計の精度はこれより格段に低かった。

工作機械が進化して当時より高品質な時計作りができるようになった現在でも、一般的な機械式時計の精度は日差+25秒~-15秒程度。最新ムーブメントを搭載して国産時計としては最高峰の精度を誇る「グランドセイコー」の機械式でも、その精度は平均日差プラス5秒からマイナス3秒。これでも世界トップクラスの高精度だ。V.F.A.とは「Very Fine Adjusted(超精密調整)」の略。まさに奇跡的な製品だった。

1980年代はまだ携帯電話など存在しない時代。だから時計は時刻を知ることができる唯一無二の大事な道具だった。それゆえ、当時の人々が時計にまず求めたのは高精度であること。

だが、高額で希少な機械式モデルでもクォーツ式には勝てない。名人級の技術者が調整してもクォーツ式に精度で劣る機械式は「時代遅れ」となり、1980年代はクォーツ式全盛の時代となった。

しかも1980年代は難しさより「軽やかさ」が人を魅了したポップカルチャー全盛の時代。時計の世界でも「スウォッチ」のような、機械式より薄くて軽いクォーツ式のムーブメントを使った色鮮やかで、しかもはるかに安い価格のカジュアルウォッチが圧倒的な人気を獲得した。

当時、40代以上の大人たちもカジュアルウォッチを着けていたことを思い出す。

■歴史と叡智の結晶を自分の腕に

そんな「軽さが文化」だった1980年代に10代〜20代前半を過ごした私にとって、初めて出会った機械式クロノグラフ、スイスのクロノグラフメーカー・ブライトリングの『ナビタイマー コスモノート』は衝撃的だったし新鮮だった。

精密な機械に特有の風格のある存在感。リュウズを回してぜんまいを巻き上げるときや、クロノグラフのスタート&ストップ、リセットボタンを押したときの、電気スイッチにはないしっかりとした確実な操作感。そして腕になじむ天然革、アリゲーターレザーストラップの感触。どれもそれまで使ってきたクォーツ式の時計にはないものだった。

そして、その場で購入を決めた最後のひと押しになったのは、ブライトリングのカタログに掲載されていた、どんなパーツが上下にどのように組み合わされているかを3次元的に描いたクロノグラフムーブメントの立体図だった。その時計は今のモデルのような、ケース裏が透明なシースルーバックではなく、時計のメカニズムは見られない。

だが、そんな機械が入っていると思うと、それだけでワクワクした。数十万円というバイクと同じくらい高価なものだった。だがそれでも「どうしても欲しい」と思った。

機械式時計は、200個を超える小さくて精密な部品、歯車とバネと金属板で構成される「機械の小宇宙」。この精密機械が持ち歩ける大きさになったのは今から600年も前の西暦1500年頃。そして今の機械式時計になるまで、数え切れない人々が「より良いモノ」を作ろうと知恵を絞り努力を重ね、技術を磨き続けてきた。

今の機械式時計は、そんな長い歴史と有名無名の世界中の人々の叡智の結晶。この点は、数千万円から数百万円もする高級モデルも、数万円のモデルも変わらない。

機械式時計が動いているとき、文字盤に開けられた窓やケースの裏側から丸いてんぷとアンクル、がんぎ車で構成される脱進調速機の動き。たとえ見えなくても聞こえる、時を刻む「カチカチ」という規則正しい音。私たちの心臓の鼓動を彷彿させるこの動きと音はまるで生き物のよう。

こうした機械はほかに見当たらない。だから機械式時計は人間にとって、他のアイテムとは別格の「特別な機械」なのだ。

  • 2022年5月に発表された限定復刻モデル『ナビタイマー B02 クロノグラフ 41 コスモノート リミテッド エディション』。ムーブメントは自社製のキャリバーB02。手巻きだが、3気圧防水に進化している。すでに完売。

私は最初に買った機械式時計、ブライトリングの『ナビタイマー コスモノート』を定期的にメンテナンスに出しながら、ときどき着けている。

私は息子が大人になったらこの時計を譲ろうと思う。きちんとメンテナンスすれば、時計の生命は人間よりはるかに長い。私と同じでメカニズムに興味がある息子も、たぶん大事に使ってくれるだろう。

機械式時計をまだしっかり見たことがないけれど、興味はある。もしあなたがそんな方なら一度、時計店に足を運んで機械式時計をじっくり、自分の目で眺めてみてはどうだろう。

スマートフォンやスマートウォッチが正確な時刻を表示してくれる今は、昔のように精度を気にする必要もない。心惹かれる機械式時計があったらぜひ手に入れて、こんな「歴史と知恵が詰まった特別な機械」を着ける楽しさを味わってほしい。

無理して高いモデルを選ぶ必要はない。モノの価値は他人ではなく、あなた自身が決めるものだから。

文・写真/渋谷ヤスヒト