――ただ、昨シーズンは先発出場がわずか一度だけでした。一転して今シーズンは右ウイングのレギュラーとして大活躍を演じて、ベストイレブンに初めて選出されました。水沼選手のなかでターニングポイントのようなものはあったのでしょうか。

ターニングポイントというよりは、悔しい思いがすごくあって。正直、オフにいろいろと考えました。考える材料もたくさんあったなかで出た結論が、自分のなかでは一番のポイントだったのかなと。覚悟を決めてF・マリノスに戻ってきたときの気持ちを思い出したというか、いまの自分ならできると思って帰ってきたのに、まだみんなに見せてないじゃないか。ならば改めて覚悟を決めて、今シーズンにこの悔しさをぶつけよう、と。そういう気持ちを持ってプレーし続けられたのがすごく大きいですね。

――強い気持ちがユニフォームの背番号の下に入るネームの変更につながったのでしょうか。これまでの「KOTA」から、今シーズンは「MIZUNUMA」に変わりました。

残ると決めたときに、F・マリノスが30周年を迎えると知ったんです。そして、F・マリノスの歴史を振り返ると絶対に父がいる。横浜マリノスとしてJリーグの1年目を戦ったときに父がプレーしていて、30周年に自分がF・マリノスにいさせてもらっている。そうした縁を持つ自分がクラブに関わる人たちに何を残せるのかと考えたなかで、1年目にも30年目にも水沼という選手がいたと、歴史に名を残すのが僕にできることかなと思うようになりました。これまでは自分の名前で証明していきたい、自分の名前を知ってもらいたい、という思いで「KOTA」にしてきましたが、そんなことはもういいかなと。プロになって15年目でしたし、小さな頃から父と同じように、一緒に有名になりたいと夢見てきた気持ちもあったので。いろいろなタイミングが重なって、F・マリノスに残る覚悟を決めた、じゃあ「MIZUNUMA」で勝負しよう、という流れでした。

――横浜マリノスが2-1でヴェルディ川崎に逆転勝利した、93年5月15日の歴史的なJリーグの開幕戦を、国立競技場のスタンドで観戦していましたからね。

ほとんど覚えていないんですけど。当時は3歳で、一生懸命に旗を振っていた記憶や、光や音がすごかったというイメージはあります。だけど、僕の記憶のなかには観客席しかなくて、ピッチ上で何が行われていたのかはまったくわからなくて。

――その試合でマリノスの決勝点につながるシュートを放ったのが、お父さんの水沼貴史さんでした。優勝を決めてから連絡はあったのでしょうか。

「おめでとう」という話をしてもらいましたけど、それ以上は特に何か語り合ったことはないです。たぶん、言いたいこともたくさんあると思いますけど、本当によかったね、という気持ちを伝えてくれたのが自分としてはすごくうれしい。F・マリノスの節目で、かつ自分の覚悟を決めて臨んだ30周年で優勝できたのは本当によかったと思っています。

――お父さんは最終節で、F・マリノスと優勝を争った川崎フロンターレ戦の解説をされていました。

父は最終節だけでなく、そのひとつ前もフロンターレ戦の解説をしていて、どんな気持ちだったのかなと思ってしまいますけど。そこに関しては特に話していませんけど、とにかく僕に対しては「集中して頑張ってこい、楽しんでこい」という声は試合前にいつもかけてくれます。今回も同じように言ってくれました。

――次の30年へ、と見ている側はついつい思ってしまいます。水沼選手のお子さんは。

どうですかね。まだ2歳ですし、女の子なので。いまはまだそのようなことを考えられないと思いますし、でも相当なプレッシャーがあるはずなので、そうさせるのはちょっとかわいそうだなと。やりたいようにやらせてあげたいなと思いますけどね。たまに試合を観に来てくれると、F・マリノスの青いユニフォームを着ている僕に対して「パパ、今日はサッカー」みたいな感じで言ってくるんです。僕は青だという感じで認識しているんだなと思っています。