2022年は鉄道開業150年の節目にあたる。「鉄道の日」10月14日の前後には、各地で記念イベントが開催されたという。150年の歴史を積み上げてきた鉄道だが、開業時から現存する記念物は少ない。駅舎に至っては、多くが改修または廃止された。

  • 長浜駅東口。橋上駅舎だが旧長浜駅舎を模したデザインに

日本国内で現存する最古の駅舎とされる建物は滋賀県長浜市にある。長浜駅は1882(明治15)年に開業したが、現在の長浜駅とは別の建物である。最古とされる長浜駅舎は、すでに列車の乗降場としての機能は有しておらず、「長浜鉄道スクエア」の名称でミュージアムとして活用されている。

「長浜鉄道スクエア」は鉄道の歴史を伝えるミュージアム施設で、館内には蒸気機関車D51形や電気機関車ED70形などが保存・展示されている。こうした展示物を見ていると、長浜駅が日本の鉄道の発展に果たした役割の大きさを感じさせる。

  • 長浜駅西口。「長浜鉄道スクエア」に行くなら西口からのほうが近い

  • 現存する最古の駅舎とされる旧長浜駅舎。現在はミュージアムとして活用されている

開業時の長浜駅は現在の東海道本線に属する駅だったが、わずかな期間で所属を変え、現在の北陸本線に属する駅となった。これは岐阜~長浜間の線路が山岳地帯にあったため、現・東海道本線のルートを米原駅経由に変更し、線路を建設し直したことによる。ただし、所属の路線が変わっても、長浜駅の重要性は変わらなかった。

鉄道の要衝地であった長浜は、明治半ば頃から近代化が進んだ。東京・大阪といった大都市では、三井・三菱・住友らの財閥によって資本主義が発達し、近代化を遂げていったが、長浜ではおもに地元の豪商・富農により、近代化に取り組んだとされる。

  • 長浜駅の近くに「明治ステーション通り」と名づけられた通りもある

長浜の近代化を語る上で、欠かせない人物が浅見又蔵である。浅見家は長浜で老舗のちりめん問屋を営む豪商で、1876(明治9)年に米国で開催されたフィラデルフィア万博でちりめんを出品。好評を博したことに手応えを感じ、以降はニューヨークへの輸出で売上拡大を図っていく。

明治の初期から、諸外国をマーケットとして見る先見性を持つ実業家は少なかった。浅見が先見性を養えた背景には、長浜という街の先取的な気風があったからだろう。

長浜が近代化していく過程で、浅見は長浜駅の目の前に慶雲館を建設している。慶雲館は明治天皇が上洛することを知った浅見が、その行在所としても使用できる迎賓館として建設した。建物の素晴らしさもさることながら、作庭家として名高い7代目小川治兵衛の代表作でもある慶雲館の庭園は、毎年1~3月に行われる長浜盆梅展の会場になっている。長浜盆梅展は規模・歴史ともに日本屈指の盆梅展で、滋賀県の風物詩でもある。浅見が長浜に残した功績は大きい。

  • 浅見又蔵により建てられた慶雲館。名庭としても知られる

歴史上、鉄道は近代化の旗手とされる向きが強い。もちろん、鉄道が日本全体を近代化させたことは間違いないが、長浜駅の開業より早くから、長浜では近代化の兆しを見せていた。それを物語るのが、1874(明治7)年に開校した開知学校の存在だろう。長浜の近代化における嚆矢として語られるシンボル的な存在となっている。

江戸時代にも各地で寺子屋などが開設され、身分の高低を問わず多くの子弟たちが学んだ。寺子屋をはじめとする私塾が明治維新の原動力になるわけだが、寺子屋のような個人の資力・労力に頼った教育体制では、国家としては不安定この上ない。そうした背景から、明治新政府は学校教育の重要性を認識し、制度を整え、学校づくりに励むことになる。

明治新政府よりも早く、教育の重要性に気づいていた地域がいくつかあった。長浜もそのひとつで、開知学校は町民たちが寄付金を募って建設している。

開知学校は、3階建ての校舎の上に八角形の櫓をのせた斬新な意匠になっており、西洋の建築技術を見よう見まねで取り入れたとされる。設計を担当した建築家は西洋建築を知っていただろうが、施工する大工や職人が西洋建築の知識がほとんどなかったことは想像に難くない。

そのため、ちぐはぐな西洋建築になってしまうのだが、これら初期のちぐはぐな西洋建築は「擬洋風建築」と呼ばれる。後に登場する西洋建築と擬洋風建築は区別されるが、明治初期の短い期間にだけ建てられた擬洋風建築は、数が少ないこともあり、日本の建築史において貴重な記録になっている。現在、開知学校の建物はできるだけ当時のままで外観を残し、飲食店として活用されている。

  • 擬洋風建築の旧開知学校。長浜が早くから西洋技術を取り入れていたことを物語る建物

開知学校に続き、1877(明治10)年には、滋賀県で最初の銀行となる第二十一国立銀行が開設された。同県初の銀行が長浜に開業したことは、長浜の近代化が進み、経済活動が活発だったことを意味している。

明治新政府は富国強兵と殖産興業を2大スローガンに掲げていたこともあり、殖産興業に寄与する銀行の普及を急いでいた。政府は国立銀行条例を発布し、この条例にもとづき国立銀行を各地に開設した。したがって、国立銀行と名乗っているものの、国が設立した銀行ではない。国立銀行条例では、免許を受けてから満20年で営業満期と定められていた。そうした事情もあり、第二十一国立銀行は1897(明治30)年、「株式会社二十一銀行」へと改組している。

  • 「ヤンマーミュージアム」は農機などを体験できるミュージアムとして人気

近代化をリードした長浜は、農業の近代化にも貢献している。農業の近代化とは、平たく言えば人力に頼っていた農作業を機械化していくことを指す。

国内屈指の農機メーカー、ヤンマーを創業した山岡孫吉は長浜出身。ヤンマーは大阪で創業したが、山岡の出生地である長岡に研究所を構えた。研究所は最新鋭の農機を開発して農業の近代化を大幅に進めた。そうした役割を果たした研究所は、2013年3月に100周年記念事業としてミュージアムへと姿を変えた。開館から約10年、いまは長浜を代表する観光施設になっている。