高卒ルーキーで即戦力…プロ1年目から新人離れの成績残した野手6人

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 リーグ戦が再開した2023年シーズンのプロ野球。今季も多くの球団で新人選手が戦力となっており、高卒ルーキーの松尾汐恩(DeNA)、山浅龍之介(中日)もすでに一軍昇格を果たした。ここでは、高卒1年目に圧倒的な活躍を見せた選手6人を紹介する。<野手編>
 

 

中西太


 
1年目成績:111試合、打率.281、108安打、12本塁打、65打点、16盗塁
 
 中西は高松第一高時代、本塁打を量産し甲子園には3度出場。3年次に出場した、夏の甲子園では2試合連続となるランニングホームランを放つなど聖地・甲子園を駆け回り、「怪童」とファンに愛された。卒業後は早稲田大への進学を希望するも家族や先輩の後押しもあり、鳴り物入りで西鉄ライオンズに1952年に入団。
 

 
 春季キャンプではチームの主戦級投手からホームランを連発。開幕から「7番・サード」で出場すると、シーズンが始まっても中西の打棒は止まらなかった。4月には毎日戦にて、ランニングホームランでのプロ初本塁打を記録する。最終的に中西は111試合に出場し、両リーグ通じて高卒新人野手初となる新人王を獲得した。中西が放ったシーズン通算7三塁打は高卒1年目の最多タイ記録である。
 
 翌シーズンからはトリプルスリー、4年連続となる本塁打王を記録する。三冠王はならなかったものの、通算本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回と華々しい成績を残した。




豊田泰光

 
1年目成績:115試合、打率.281、113安打、27本塁打、59打点、25盗塁
 
 豊田は、水戸商時代に高校ナンバーワン遊撃手として名を馳せた。水戸商は豊田が3年時の夏の甲子園に出場し、ベスト16に進出した。東京六大学への進学を考えていたものの、西鉄のスカウトから熱烈な勧誘を受けたこともあり1953年に西鉄ライオンズに入団した。
 

 
 プロ1年目は開幕戦から「9番・ショート」として出場。徐々に打順を上げていき、最終的には強打の2番として躍動した。西鉄の選手としては中西に続いて2年連続となる新人王を獲得。この年放った27本塁打は当時の新人最多記録だった。
 
 その後は日本人史上初となるショートでの首位打者を獲得するなど、打撃での活躍が光った。1956年からはチームの日本シリーズ3連覇にクリーンアップとして大きく貢献。豊田自身も日本シリーズMVPを獲得する活躍だった。




榎本喜八

 
1年目成績:139試合、打率.298、146安打、16本塁打、67打点、12盗塁
 
 榎本は早稲田実に入学すると、3度の甲子園出場を果たす。全国大会では不振だったこともあり、どこの球団からもオファーは届かなかった。毎日オリオンズの入団テストにて、そのバッティングスタイルが首脳陣の目を引き、1955年に毎日に入団することとなった。
 

 
 ルーキーイヤーはオープン戦の活躍が認められ、5番で開幕戦スタメン出場を果たす。その後のシーズンは主に3番打者として活躍し、新人王を獲得した。打率3割には僅かに届かなかったものの、試合数や打席、打数、安打(146安打)や出塁率(.414)なども高卒新人の歴代最高記録を叩き出している。
 
 その後は、プロ野球界史上最年少での1000安打、2000安打を達成。首位打者2回、最多安打4回などの成績を残した。




張本勲

 
1年目成績:125試合、打率.275、115安打、13本塁打、57打点、10盗塁
 
 張本は広島・松本商(現・瀬戸内高)から浪華商(現・大体大浪商)に転校したのち、野球部に入部。張本は主力として甲子園の切符を手にする。しかし不祥事が相次ぎ、張本の甲子園出場は叶わなかった。
 

 
 1959年に東映に入団。松木謙治郎コーチの下、猛練習に励み「6番・レフト」として、開幕スタメンに名を連ねる。同試合では結果を出せずに途中交代となったが、翌日の試合でプロ初ヒットと初ホームランを放った。6月からは4番に座り、最終的に新人王を獲得する活躍をみせた。
 
 その後は首位打者7回、日本プロ野球史上初の3000安打に加え、前人未到となる9年連続、16度のシーズン打率3割と数々の金字塔を打ち立てた。歴代2位の9666打数を数えながら、通算打率.319(同3位)の数字は圧巻だ。




清原和博

 
1年目成績:126試合、打率.304、123安打、31本塁打、78打点、6盗塁
 
 PL学園では1年生時から4番を打つ。甲子園は5回出場し、優勝と準優勝を2度ずつ経験した。甲子園では当時の大会新記録となる、1大会5本塁打を記録。同級生の桑田真澄とKKコンビと呼ばれ、歴代屈指の注目と人気を集めた。ドラフトでは6球団から指名を受け、抽選を経て西武ライオンズに入団した。
 

 
 ルーキーイヤーの1986年には開幕2戦目でプロ初出場し、本塁打も記録した。徐々にスタメンとして出場機会を得ると、5月下旬には5番を任せられる。前半戦は打率.252、11本塁打を記録し、オールスターにもファン投票1位で選出される。後半戦はペースをあげ、20本塁打を放つ。高卒新人初となる月間MVPを9月には獲得する活躍だった。
 
 打率、本塁打、打点に加え、この年に放った236塁打はプロ野球における高卒新人記録。新人選手の2桁本塁打は27年ぶりの事で、文句なしの新人王選出となった。またこの年、日本シリーズでは優秀選手賞を獲得し、大舞台でも力を発揮した。




立浪和義

 
1年目成績:110試合、打率.223、75安打、4本塁打、18打点、22盗塁
 
 1987年にPL学園の主将として、史上4校目となる春夏連覇に貢献。同年のドラフトで、南海ホークスと中日ドラゴンズによる競合となり、結果中日に入団した。
 
 ルーキーイヤーはキャンプからその素質を首脳陣に見抜かれ、「2番・ショート」で開幕スタメンに抜擢される。昨年度のセ・リーグベストナインを獲得した宇野勝をセカンドにコンバートしての立浪の起用となった。大洋との開幕戦では、28年ぶり3人目となる高卒新人野手の開幕戦安打を記録する。同年のオールスターにはファン投票で選出された。
 

 
 チームはその年リーグ優勝を果たし、立浪はレギュラーとして優勝に貢献。新人離れした守備と高い走塁技術が評価され、新人王とゴールデングラブ賞を受賞した。新人王の獲得は高卒新人野手としては立浪が最後で、高卒新人野手のゴールデングラブ賞受賞は球史において唯一となっている。
 
 その後は歴代最多となる487二塁打、歴代8位となる2480安打を記録。「ミスター・ドラゴンズ」として愛された男は、いまチームの指揮を執っている。







 
【了】