資格取得を目指しているなど、なんらかの勉強をしている人にとって重要なものが「記憶力」です。そうでなくとも、「仕事で必要なことをすぐ忘れてしまう…」「自分は物覚えが悪い…」というふうに思っている人もいることでしょう。

  • 「記憶できない」はただの思い込み? 脳にまかせる記憶術 /世界記憶力グランドマスター・池田義博

そこで話を伺ったのは、「世界記憶力グランドマスター」として知られる池田義博さん。「記憶力が悪いのは、脳が持つ記憶のメカニズムをうまく働かせられていないだけ」と語る池田さんが、「脳にまかせる」記憶術を伝授してくれます。

■ひと握りの「記憶の達人」だけが得られる「グランドマスター」

——池田さんは「世界記憶力グランドマスター」という称号をお持ちです。この称号はどのようなものでしょうか。
池田 世界記憶力選手権(World Memory Championships)という大会で、ある条件をクリアした「記憶の達人」という意味で与えられるのが、グランドマスターという称号です。その大会では3日間にわたって10種目が行われ、そのなかの3種目にグランドマスターとなるための条件が設定されています。

ひとつが、「シャッフルしたトランプ1組52枚のカードの並びを5分以内に記憶する」というもの。ふたつ目は、「1時間のあいだにシャッフルしたトランプ1組52枚の並びを10組以上記憶する」というもの。3つ目は、円周率のように「ランダムな数字の並びを1時間のあいだに1000桁以上記憶する」というものです。

わたしがグランドマスターを取得したのは、2013年12月。日本人初のグランドマスターとなりました。

——池田さんが出場された大会の出場者は何人で、そのうち何人がグランドマスターとなったのでしょうか。
池田 出場者は200人くらいで、グランドマスターとなったのはわたしも含めて5人くらいだったと記憶しています。もちろん、それまでの大会ですでにグランドマスターを取得した人たちも出場していますから、単純に200人中のわずか5人しかなれないというわけではありません。

——とはいえ、やはり狭き門だと思います。
池田 たしかにそう見ることもできますね。記憶力のトップレベルにある人たちのなかでも、グランドマスターとなれるのはそう多いわけではありませんから。

■そもそも脳は「ものごとをなるべく覚えたくない」器官

——池田さんのような人とはちがって、一般の人のなかには「記憶力に自信がない」「自分は物覚えが悪い」と思っている人は多いと思います。
池田 それは思い込みに過ぎないといえる一方、ある意味では「誰もが物覚えが悪い」ということもできます。というのも、そもそも脳は「ものごとをなるべく覚えたくない」という器官だからです。脳の重さは全体重のうち約2%に過ぎません。にもかかわらず、脳が消費するエネルギーは体全体が消費する全エネルギーの約25%にも達します。

しかも、脳が行う作業のうちでも、記憶という作業は大きなエネルギーを消費するものです。目に見えるものや聞こえるものなど、周囲のあらゆる情報をすべて記憶するとしたらどうなるでしょう? 脳はあっという間にパンクしてしまいます。

そのため、脳はなるべく省エネモードで活動しようとします。つまり、なるべくものを覚えようとせず、かつ一度覚えたものもなるべく早く忘れようとするというのが、デフォルトの状態での脳の特徴なのです。

——つまり、覚えられなくて当然ということですね?
池田 そのとおり。でも、一方では実際に物覚えがいい、記憶力がいいという人も存在します。そういう人たちは、本人が意識しているかどうかはともかく、脳のデフォルトの状態を解除し、記憶のメカニズムを働かせる要素をうまく利用しているのです。その要素とは、大きく3つ。「記憶しようという意志」「記憶に伴う感情」「復習」です。順に解説しましょう。

まずは「記憶しようという意志」。これが記憶のスイッチになります。「あたりまえじゃないか」と思うかもしれませんが、たとえば勉強をするにしても、ただテキストを読み流すというふうに、本当に記憶しようと思っていないまま勉強をしているということもじつは案外多いのです。

記憶には3つの段階があります。覚える「記銘」、覚えておくという「保持」、覚えたことを思い出すという「想起」です。その3段階を経たものが記憶と呼ばれますから、最初の段階である記銘がしっかりできないと、記憶になるはずもないのです。

ですから、たとえば人の名前を覚えるのが苦手だという人も、「今日会う人は、今後も仕事でかかわる重要な人だから、絶対に覚えるぞ!」と自分にいい聞かせるだけで記憶のスイッチを入れることになり、格段によく記憶できるようになります。

■あえて「感情」を動かすような工夫をする

——では、次の「記憶に伴う感情」について解説してください。
池田 これには、脳のなかの記憶の司令塔のような役割を担う「海馬」という部分と、感情を生み出す役割を担う「扁桃体」という部分がかかわります。そして、両者はぴったりくっついている。ここがポイントです。

ぴったりくっついているために、なんらかの感情が動いたときには、その刺激は扁桃体から海馬にも伝わります。すると、記憶の司令塔である海馬は、「これは重要な情報だ」と判断し、強く記憶するというメカニズムがあるのです。

このことは、そういったメカニズムを知らずとも、「思い出」のことを考えれば納得できるでしょう。楽しい、うれしい、悔しい、悲しいなど、強い感情が伴った出来事は何年たっても忘れませんよね。

つまり、記憶しようというときは、なるべく感情を動かすことがポイントとなります。どんなことでも新鮮に映る子どもとはちがって、大人になると「これはもう知っている」「やったことがある」というふうに感情が大きく動くことが減るものです。でも、記憶するということから見ると、これはNG。簡単にいうと、毎日をしらけて過ごしては駄目ということですね。

もう少し具体的にいうと、感情を動かすような工夫をするということです。歴史を学ぶのなら、ただテキストの字面を追うのではなく、大河ドラマのような情景を頭のなかでイメージする。年号を覚えるなら、自分なりにくだらないダジャレの語呂合わせなどを考えてその情景をイメージする。

そのような工夫をすれば、ただ字面を追うことと比べれば、感情がはるかに大きく動くということになり、記憶の定着を助けてくれます。

■「忘れかけた頃」に復習をする

——記憶のメカニズムを働かせる要素の3つ目、「復習」について解説してください。
池田 なかには、一度覚えたことは忘れないという特殊能力者のような人もいますが、一般的には1回の作業で記憶を定着させられる人はいません。一度覚えたことも、その記憶は直後から急激に失われていきます。もちろんそれは、先にお話したように脳はなるべく忘れようとする器官だからです。

ただ、記憶の司令塔である海馬は、何度もインプットされてきたものは「重要だ」と判断して記憶しようと働きます。そのため、ずっと記憶を残したいと思うのなら、復習が鉄則なのです。

——具体的にどのように復習すればいいのでしょうか。
池田 いちばんのポイントは、「忘れかけた頃」に復習をするということ。勉強をして覚えたことについて、すぐに復習をしてもまったく意味はありません。かといって、長い時間が過ぎてすっかり忘れてしまったことを復習しようとしても、もはや記憶に残っていませんから、それはもう一度記憶し直すという作業をするだけということになります。

そうはいっても、「忘れかけた頃」がどのくらいかは自分で認識しにくいものです。そこで、わたしから目安をお伝えしましょう。その目安とは、記憶をした「1日後」、その日から「1週間後」、その日から「2週間後」、さらにその日から「4週間後」です。その4回の復習で記憶の定着を狙うのが、わたしがおすすめする復習法です。

ただ、これはあくまでも目安なので、まずはこの目安に沿って実際に試してみて、自分自身の「忘れかけた頃」を探してほしいと思います。

■まず「全体像」を見せて脳の「不安」を払拭する

——すでにいくつか具体的な記憶術について解説していただきましたが、一般の人が実践しやすく効果の高い記憶術を教えてください。
池田 そういう意味では、わたしが「ペンキ塗り」と呼んでいる方法がいいでしょう。これはたとえば、勉強の参考書、あるいは仕事で使う資料の内容といった、範囲があるものを記憶するというときに有効なものです。

そういうとき、参考書や資料の最初からじっくり読んですべてを頭に入れていこうとする人も多いでしょう。でも、これは記憶するという観点から見るとおすすめできません。なぜなら、脳が「不安」を感じるからです。

——脳が「不安」を感じる?
池田 そうです。どのくらいのボリュームなのか、あるいはどのくらいの難易度かといった「先が見えない」状態では、脳は不安を感じます。そして、不安があるために脳のパフォーマンスがしっかりと発揮できないのです。

では、どうすれば不安を払拭できるのか。その答えは、「全体像」を見せるということ。つまり、理解できない部分があったとしても、まずはスピードをもって必要な範囲の最後まで読んでしまうのです。すると脳は、「これくらいのボリュームか」「これくらいの難易度なんだな」というふうに理解できますから、不安がなくなって記憶のパフォーマンスをしっかり発揮してくれるようになります。

もちろん、スピードを意識して1回読んだだけでは、その時点におけるそれぞれの内容の記憶の定着は強いものではありません。でも、そうして全体像を脳が理解すれば、記憶の「骨組み」というべきものができあがります。あとは、2回、3回と繰り返し読むうちに、その骨組みに肉づけをするようなかたちで全体を記憶していくのです。

たとえるなら、スピードを意識しながら薄いペンキで塗り重ねていくイメージです。そうして完成させた記憶は、最初から濃いペンキをじっくり塗っていってできた記憶よりもずっと長く定着するという特徴を持っています。

■記憶力とは、思考力の原点

——勉強している人にとっては記憶力が重要だということは当然ですが、そうではない一般の人にとって記憶力はどんな意味を持つとお考えですか?
池田 わたしは、記憶力とは単に記録の能力ではないと思っています。インプットした情報をそのままのかたちでしかアウトプットできないとしたら、あまり意味はありません。そんなことはコンピューターにでもまかせておけばいいですからね。

だけど、人間の脳の記憶力は、そういったものではありません。個別にインプットしたバラバラの情報が有機的に絡み合い、脳が自動編集するようなかたちであるとき突然新しいアイデアや思考というかたちでアウトプットされることもあります。

わたし自身、記憶力競技のためのトレーニングを続けているうちに強く実感したのは、それ以前と比べるとすごくたくさんのアイデアが浮かぶようになったということです。

あらためて考えてみたら、当然のことかもしれません。頭のなかに情報や知識がまったくない状態でいくら考えてみても、アイデアなんて生まれるわけがないですよね。やはり、アイデアとは、記憶力によって頭のなかにインプットしたいくつもの情報や知識同士が化学反応を起こすようにしてポンと生まれるものでしょう。

あるいは、誰もがインターネットに触れるいまは、「検索できればいい」「検索能力が重要」といったこともいわれます。でも、調べたいものにたどり着くために最適な検索用語を選択するためには、やはり記憶力によってインプットした情報や知識が欠かせません。それらがなければ、検索結果を通じて得られるはずのアイデアや思考も生まれないでしょう。

そう考えると、記憶力とは「思考力の原点」といってもいいものではないでしょうか。

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/清家茂樹 写真/玉井美世子