箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)が初めて開催されたのは、いまから102年前の1920(大正9)年、2月14・15日のことだった。当時の大会名称は「大学対抗駅伝競走(四大校駅伝競走)」、参加したのは東京高師(現・筑波)、早稲田、慶應、明治の4校。
この大会を考案したのは、1912(明治45年)に日本人として初めて五輪(ストックホルム大会)に出場したマラソンランナー・金栗四三。3年前にNHK大河ドラマ『いだてん』でもフォーカスされた金栗とは、どんな男だったのか?
■「黎明の鐘になってくれ」
「私はオリンピックには出ません」
直立姿勢で、金栗四三がそう言ったのは、1912年初頭のことだった。
東京高師の校長・嘉納治五郎に呼ばれ彼は、こう言われた。
「金栗君、今年の夏にストックホルムで開かれるオリンピックに君を送り出すことを正式に決めたよ。しっかりと頑張ってくれ!」
最初は笑顔だった嘉納の表情が曇る。金栗が喜んでくれるとばかり思っていたのが、そうではなかったからだ。
「どうしてだ?」
「先生、私はマラソンを熟知できているわけではありません。出場すれば日本の皆が私に金メダルを期待することでしょう。でも、それに応える自信がないのです。荷が重すぎます」
金栗は、前年(1911年)11月、東京・羽田で開かれた「オリンピック予選会」で初めてマラソンに挑んだ。雨が降り続く悪天候の中を快走、2時間32分45秒のタイムでゴールしたのだ。
これは、とてつもない記録だった。当時の世界記録2時間59分45秒を27分も上回ったのである。だが、海外の反応は冷ややか。
「世界記録が一気に27分も更新されるなんてありえない、それも悪天候の下で。おそらくは距離の測定が間違っていたのだろう」
当時の測量精度は、決して高くはない。だから金栗も、自分が世界中で一番速く走れるなどとは思っていなかった。
だが、嘉納は言った。
「いいか金栗君、いま日本は欧米諸国に対して大きな後れをとっているんだ。我々は、それを認識せねばならない。これはスポーツでも同じだ。君は敗れた時、辛い思いをすることになるかもしれない。だが、誰かが一歩を踏み出さないと何も始まらない。
金栗君、頼む。日本スポーツ界のために『黎明の鐘』になってくれ」
尊敬する嘉納にそこまで言われては、金栗も断るわけにはいかなかった。むしろ、気持ちが奮い立った。
「全力を出して、やれるだけのことをやろう」と。
そして、ストックホルムへと向かう。飛行機で旅行ができる時代ではない。金栗らは、船と列車を乗り継ぎ出発から17日後、現地に到着した。
7月14日、金栗は、ストックホルム・スタディオンでマラソンレースのスタートラインに立つ。陽差しが強く照りつける暑い日だった。
参加選手は各国から集まった64名。そのほとんどの選手が、いきなりスタートダッシュをかける。競技場のトラックを2周してから街道に出ていくのだが、この時点で金栗は先頭集団に大きく差をつけられてしまった。
それでも必死に食い下がり、徐々にペースを上げ何人かを抜く。
(よし、ここからだ!)
だが、折り返し地点を過ぎたところで、これまでに感じたことのない苦しさを金栗はおぼえた。異常な暑さによるものだったろう。照りつける陽差しだけではなく、舗装された道路からの照り返しも激しい。
突然、カラダからスーッと力が抜けた金栗は倒れ、意識を失う。熱中症によるものだった。
■75歳での最遅記録達成
気がついた時、金栗は民家で寝かされていた。
沿道に応援に駆けつけていた日本公使館の職員に助けられ、近くの民家に運ばれたのだ。その後、競技場に戻ることなくホテルの部屋へと向かった。無念の途中棄権。
「金栗、何たる意気地なしか! 誇りはどうした。大和魂は何処に捨てたか!」
同行していた京都帝大教授・田島錦治から、そう怒鳴られる。
「すみません」
満身創痍の状態で、金栗は小声で呟くように声を絞り出すことしかできなかった。
帰国後、嘉納の励ましもあり金栗は4年後の雪辱を誓う。しかし、第1次世界大戦により1916年のベルリン五輪は中止に。それでも競技を続け、1920年のアントワープ五輪(16位)、1924年パリ五輪(途中棄権)に出場するも、メダルを手にすることはできなかった。
世界に通用する日本人ランナーを輩出せねばならない─。
現役ランナーであるときから金栗は、その思いを強く抱いていた。
(長距離走は、もっと社会から注目され、走る側も楽しめなくてはいけない。そうしないと強いマラソンランナーが育たない)
この考えのもと彼は、リレー形式の駅伝競走開催に尽力。1917(大正6)年4月に、「東海道五十三次駅伝競走」を実現させる。京都・三条大橋がスタート地点、東京・上野をゴールとする雄大なるレースだった。これが世界初の駅伝競走である。
「箱根駅伝」が始まるのは、その3年後のことだ。
ちなみに金栗は、マラソンの最遅記録保持者でもある。
75歳になっていた1967(昭和42)年に、彼のもとに一通の国際郵便が届き、それにはこう記されていた。
<あなたは1912年7月14日にストックホルムのオリンピック競技場をスタートして以来、何ら届けもなく、いまだ何処かを走り続けていると想定されます。
スウェーデンオリンピック委員会は、あなたに第5回オリンピック・マラソン競技の完走を要請します>
ストックホルム五輪開催55周年イベントを行うにあたっての粋な演出だった。
この手紙を読みながら笑みを浮かべた金栗は、ストックホルムに向かい、コートを纏い皮靴で競技場を10メートルほど走りゴールテープを切る。
その直後に場内アナウンスが流れた。
「日本の金栗四三選手がゴールインしました。タイムは、54年8カ月6日5時間32分20秒3。これで第5回オリンピック・ストックホルム大会は、すべての日程を終了しました」
寒空の下、金栗は目に薄っすらと涙を浮かべ、それでも笑顔でスタンドに手を振った。
(次回に続く)
▶金栗四三(かなくりしそう)プロフィール
1891(明治24)年8月20日、熊本県玉名郡春富村(現・和水町)生まれ。県立玉名中学校(現・県立玉名高校)、東京高等師範学校(現・筑波大学)卒業。オリンピックに3度出場。生涯で走った距離25万キロ。1983(昭和58)年11月13日永眠、享年92。
文/近藤隆夫、写真提供/玉名市歴史博物館こころピア