26日に最終回を迎える大河ドラマ『青天を衝け』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)。第39回「栄一と戦争」(脚本:大森美香 演出:村橋直樹)では、日本が日清戦争で勝利し、世界の一等国に近づいた。
若き頃、血洗島で世の中に対して「悲憤慷慨」していたことを懐かしむ惇忠(田辺誠一)と喜作(高良健吾)と栄一(吉沢亮)。ここ数回の『青天を衝け』は、最終回を前に栄一の歩んできた道筋を振り返りながらまとめに入ってきているように感じる。
『青天を衝け』は「近代日本経済の父」と言われた渋沢栄一を中心に、江戸から明治、激動の歳月を生き続けてきた人たちの物語である。だが江戸から明治までまんべんなく栄一の功績を描いているかというとそうではなく、明治を彩った人たちの原点は何だったか、それが江戸時代にあったという視点で描いているようなのだ。江戸を0にしてまったく新しい明治になったのではなく、江戸での体験が脈々と明治、ひいてはその先に生きているのだと『青天を衝け』を見ると感じる。だからこそ初回から登場した徳川家康(北大路欣也)がいまだに出ているのだろう。
渋沢栄一には晩年の洋装姿のビジュアルイメージが強いが、『青天を衝け』では栄一が若き頃に体験した様々な出会いと別れ、成功と失敗を手厚く描いてきたことで、江戸時代の生まれで少年時代はちょんまげだったということが『青天を衝け』でより強く印象づけられた。
最初は尊皇攘夷、それから一橋家の家臣と、2つの視点も経験して、最終的には民間の実業家となり、経済を整えることで国民すべてを幸福に導こうとしてきた栄一。第39回で嫡男・篤二(泉澤祐希)が「父上は戦争のときに限って病になる。よほど体質にあっていないのかもしれません」と言うように、栄一は戦ではなく商売で世の中を良くしようとしてきた。血の気の多い喜作と一緒に最初は血気盛んだったものの、いろんな経験をして戦から距離をとるようになっていく。一方、喜作は運良く生き延びたが戦に身を投じていった人物である。
そして、慶喜(草なぎ剛)も戦から距離をとって来た。栄一が病にかかり死にそうになったため、慶喜は励ましの意味もこめて、断っていた伝記作成を承諾し、そのために自身の過去と本音を語る場で「己が戦の種になることだけは避けたいと思い、光を消して余生を送ってきた」と振り返る。
その前に慶喜に会った惇忠は「残され生き続けることがどれほど苦であったことか」と労われるが、この言葉は慶喜にこそ当てはまる。そして栄一にも。
「人は誰が何を言おうと戦争をしたくなると必ずするのだ。欲望は道徳や倫理よりもずっと強い」「人は好むと好まざるとにかかわらずその力に引かれ、栄光か破滅か運命の導くままに引きずられていく」と慶喜は考え、その欲望の闘いの渦中において「隠遁は私の最後の役割だったのかもしれない」と自身の行いをそうまとめるのだ。それを聞いた栄一も引退を考える。
家康が作った江戸時代は、天下が統一され戦がなくなったが、結果的には権力争いはなくならず、戦が起こり江戸時代は終わった。欲望によって争いが起こるのであれば、人間は欲望をどう収めるのか。それは自分で身を引く時期を見極めることである。慶喜はそうしたし、栄一もそうしようとする。欲望はきりがないものだから、どこかで分をわきまえ、他者と分かち合い、譲り合う、そういう理性を栄一と慶喜は持っている。
彼らの生き方を次世代の篤二が見る役割をしている。篤二が「父よりよほどあなた様の生き方に憧れます」と言うと、「まあ…そんな単純なものではない」と慶喜は答えるのだが、それだけ大変だったということだろうし、栄一の大変さも知っているのだと思う。
その後、篤二は、栄一が倒れ後を継がされそうになって「僕も逃げたい」と半狂乱になる。「あなたの生き方に憧れる」と言っていたにもかかわらず、「それでも…あなたに比べたらましなはずです。あなたが背負っていたのは日本だ。日本をすべて捨てて逃げた。それなのに今も平然と……」とそんなことを言い出す。篤二は、慶喜が果てしない苦悩の末、光の中心にいることをやめた、その葛藤に思いをいたすところまで成熟していない。同じく、父のやっていることも理解できない。
次世代の者たちの中から慶喜や栄一の考えを引き継げる人がいたらいいのだけれど。その後の日本は国力が強くなり、欲望が止まらなくなっていくわけだが……。「売国奴めー」と栄一を襲いに来る人たちがゾンビ映画のような見せ方で、これは前回まで栄一たちを悩ませたコレラとは関係なく、欲望という病が人間をおかしくしていくようにも見えた。
明治の栄一の実業家としての大活躍――とくに演劇にも力を注ぎ、女優の活躍も後押ししたというような話なども見たかったところではあるが、彼の華やかな活躍をエンタメ的に描くのではなく、歩んできた道がこれで良かったのかと熟考する流れになっているのは、単にコロナや五輪によって放送回数が短くなったからというわけではなく、もともと実業家としての活躍部分の比重を大きくしてなかったのではないだろうか。振り返れば、最も鮮やかに蘇るのは血洗島の自然の中での生活や労働なのである。『青天を衝け』が何を私たちに告げたかったのか、そろそろじっくり考えたい。
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