洋楽ファンにとって、この夏、最大級のショックだったチャーリー・ワッツの死。ロックマニアの御徒町晴彦もご多分にもれず、やや落ち込み気味。ちょっと声をかけてみたところ……。

広島:チャーリー、亡くなっちゃいましたね。ショックですか?

御徒町:急だったからな~。またやるよ、みたいなコメントも出てたからね。速報記事だけ書いたけど、もうちょっと濃いヤツ載せたいな。うまくまとまらないから、キミ書きなよ。

広島:え!?

御徒町:じゃあ、あとはよろしく~

帰ってしまった……。しょうがない、拙文ながら書いてみます。

チャーリー・ワッツ。伝説のバンド、ザ・ローリング・ストーンズの不世出のドラマー。8月24日に亡くなった。自分がはじめて、ストーンズのアルバムの買ったのは中2のとき。隔週日曜日に、テニス教室に電車で通う中学生だった僕は、乗り換えのために途中下車する溝の口駅周辺の中古レコード屋で、ベストアルバム『Big Hits (High Tide and Green Grass)』を500円ぐらいで買った。

  • 中2のときに買った『Big Hits (High Tide and Green Grass)』(ポリドール/ロンドンレコード)。「英国人による初の完全対訳」という帯文が泣かせる

ガード下の古本屋、500円コーナーで出会ったストーンズ

親が電車賃と昼食代用に2,000円をくれる。それをなんとかやりくりすると、日曜日の夕方に千数百円のお金があまる。2,800円の新品アルバムはとても買えないけど、中古なら買えたというわけ。溝の口は、周辺の大学生が名盤を大量に放出してくれるのか、狙い目のスポットだったな。このアルバムの最後に収録されている「Little Red Rooster」に充満している「ビートルズと違って、俺たち不良なんだぜ」的な雰囲気がよかった(実際は、ビートルズの方が不良だったわけですが)。そのあと、日本のルースターズというバンドの存在を知って、この人たちは、わかってるなーと思った。

ルースターズのギタリスト、花田裕之さんが選んだ『ルースターズ初期にバリバリ練習したストーンズ・ナンバー』のプレイリスト。デッカ時代の名曲が揃ってます

チャーリーは、ストーンズサウンドの要であった。大学で知り合ったドラムが異常にうまいKってやつがチャーリーの大ファンで、「ストーンズのスコアを再現するのは、誰にでもできる。でも絶対、あのノリは出せない。どんなに練習してもムリだよ。キース・リチャーズとチャーリーが2人で作り出しているしね」といっていた。キースしか見えていなかった僕は意味がわからず、「ふーん」とだけ思ったのを覚えている。しかし、後に有名なドラマーになった彼の洞察は、まさにドンピシャだった。才能があるやつは、10代そこそこで感覚が違うもんだなと思う。

『Big Hits (High Tide and Green Grass)』の中ジャケをみると、なぜかチャーリーの写真が2枚も印刷されている。裏方的に見られるチャーリーだけど、ジャケットへの露出は多い。『Between the Buttons』なんて、ど真ん中に写っている(『Get Yer Ya Yas Out』はややいじられ感あるけど)。

  • 適当なアー写で埋めた、少々、やっつけ感のある『Big Hits (High Tide and Green Grass)』の中ジャケ。なぜかチャーリーの写真が2枚印刷されている

  • ザ・ローリング・ストーンズ『Get Yer Ya Ya's Out』(ユニバーサル ミュージックジャパン)

    ザ・ローリング・ストーンズ『Get Yer Ya Ya's Out』(ユニバーサル ミュージックジャパン)。チャーリーとロバで、メンバーの楽器を運んでいる。そして、チャーリーの謎の笑顔……。これで内容がダメならとんだ黒歴史だが、ご存知の通り、こいつは超ド級の名盤。ちなみに、収録されている「Midnight Rambler」の5:40あたりに「かっちょいい!」という日本語(のように聞こえる)の歓声がはいっていて、これが村八分のヴォーカリスト、チャー坊の声ではないかという噂があったが、北沢夏音さんによるチャー坊へのインタビューにより否定されている

そもそも、ミック・ジャガーとキースのコンビが、ロンドンのザ・イーリング・クラブで、ブライアン・ジョーンズとチャーリーのコンビと知り合ったのがストーンズ結成のきっかけ。この4人の絆は相当なもんだったろう。ロンドンの地下室に集まった20歳前後の青年4人で、後世まで残るロックンロールを作ることができたなんて、信じがたい偉業だ。

ブライアンの死を乗り越えた3人

1981年のツアーを撮影した映画『Let's Spend the Night Together』のメンバー紹介シーンでは、名前を呼ばれ歓声を受けるも、はにかんでノーリアクションなチャーリー、「おい、なんかリアクションしろよ」とおどけてパンチをいれる、キース。それを見て笑うミック。という3人の姿を見ることができる。不仲説がつきものだったストーンズだけど、この3人の表情を見れば、オリジナルメンバーである3人の絆が特別なものだったのがわかる。

ブライアンが自宅のプールで溺死しているのが発見された1969年7月3日の2日後に、彼らはハイドパークのフリーコンサートで、そんな状況とは正反対の明るい曲調の新曲「Honky Tonk Women」を演奏しなくてはいけなかった。これをドライだと見る向きもあるかもしれないが、そんなわけはないだろう。

この死の約1カ月前に、ブライアン含めたオリジナルメンバー4人で、ブライアンの脱退を決めたとされている。いくらドラッグでコントロールを失っている状態だったとはいえ、4人の中で一番ブルースに精通していて、バンドを引っ張ってきたブライアンを脱退させるのは断腸の思いだったはず。そして死を知らされ、追悼ライブとして演奏したものの、加入したばかりのミック・テイラーの演奏はいまいち。さぞかし、つらく、みじめな体験だったろう。                           

こんな体験や時期を一緒に乗り越えてきた仲間だ。今、ミック、キースはショックに打ちひしがれているだろうな。あとKも。

チャーリーを追悼する、キースのInstagramのポスト。まさにTalk Is Cheap。言語では、彼の心境を表現できないよね

また、チャーリーは元デザイナーだけあって、舞台装飾の制作やグッズ監修も担当していたといわれている。思えば、ストーンズ周辺のアートワークにはスタイリッシュなものが多く、2000年ごろには、クロームハーツとコラボしたり、センスがあるところを見せていた。なんだかんだいっても、あのベロのマーク、カッコイイ。

  • チャーリーが監修したかどうかは不明だが、センスを感じるグッズをひとつ。2002年のツアーTで、イギリスの気鋭ブランド「ブディストパンク(Buddhist Punk)」とのコラボ。キースがテレキャスター・カスタム(もしかすると、バタースコッチブロンドのテレキャスかも)を弾いている70年代ごろの写真を油絵風にペイントしてある。こんなイケてるツアーT、そうそうないはず。当時は、なんとなくの記念で買ったけど、チャーリーのいない今となっては、大事な宝物です

若かりし頃の面影どこへやらで、別人のように太ってしまったり、事業家みたいになって、かつての仲間と裁判でやりあったり。往年のロックスターに幻滅することも少なくないけど、最後までスーツをビシッと着こなす英国ミュージシャンとしての佇まいを崩さず、人生を終えたチャーリー。改めてご冥福を祈りします。

チャーリーが参加した最後のスタジオアルバムは、デビューアルバムのようにブルースのカバーで構成された『Blue & Lonesome』。最期まで身を削るように作品を作り、アーティストとしての気骨を見せるのもいいが、ブルースマンに憧れてバンドをはじめた3人のラストアルバムが、あえてのブルースのカバーだったってのも、なかなかに味わいのある話だと思う。

  • (C)BANG Media International

    オリジナルメンバー3人とロン・ウッド。ロンが加入した頃は、バンドがかなりギクシャクしていたそうだが、ロンがおどけ半分で、昔の「Little Red Rooster」なんかを演奏して、場をなごませていたそうだ (C)BANG Media International

最後に、のちに有名ドラマーになったKが一番好きだった曲がこれ、「Midnight Rambler」。後半アドリブっぽくなるところで、キースとチャーリーがアイコンタクトしあって、そこにミックのブルースハープがからむ。そして、ブレイクがはいったあとのスリルあふれる、ドスのきいたグルーブ。すごいバンドでした。

公式youtubeチャンネルより、「Iconic Rolling Stones Moments from the 70s!」71年演奏の「Midnight Rambler」が聴けます。緩急自在のチャーリー、痩せマッチョでド迫力のミック&キースにかこまれながら、若手のミック・テイラーがビビりながら食らいついていく名演奏