世界中で生きているほとんどの人にとって、パンデミックは人生ではじめて直面する事態であり、それに対して怖れたり不安になったりするのは無理もないことです。しかしわたしたちは、そんな過酷な状況においても、学びながら前に向かって生きていかなければなりません。

脳科学者としてメディアでも活躍する中野信子さんは、「いまの自分を高める学びだけでなく、価値を測る基準をつくるという視点を持つことが大切。自分の基準をつくる営みこそが、学び」だと語ります。その真意に迫ります。

■わたしたちは歴史の生き証人になった

ルネサンスや宗教改革、産業革命など人類の歴史の転換点は様々にありますが、パンデミックもまた、歴史の転換における一種のブースターのような役割を果たしてきた側面があるのです。

いま現在、わたしたちのまわりを見渡しても、産業構造の変化の兆しと思われる現象がたくさん生じていることに気づかされます。これまで多くの人はZoomなどのオンラインビデオチャットツールを使っていなかったと思いますが、在宅勤務の広まりから当然のように使われるようになりました。また、対面型の店舗やサービスの数が減り、代わりにeコマースが伸びるなどの変化が起きているのを目の当たりにしています。

こうした状況も一概にネガティブな変化ではなく、人類が大きな転換のときを迎えているのだとわたしは見ています。

2020年に発生したパンデミックは、おそらく人類史の転換点になるでしょう。一生涯のうちに、こんな局面はなかなか経験できませんから、わたしたちはいわば歴史の生き証人なのです。そうした長いスパンで見ると、人類は当面の経済状況などの短期的な変化と、社会構造や産業構造の転換をはじめ新しく生まれる変化の両方について、否が応にも考えなければならないのだと思います。

■人間は「価値を測る基準」を持ちにくい

このような時代にわたしたちが養うべき力は、けっしてひとつだけではありません。そのなかでわたしがいま注目しているのが、ものごとの「価値を測る基準」を持つことです。

そもそも人間は、価値を測る基準を持ちにくい脳をしています。たとえば、誰かが手にしているコップの色が黄色に見えたとして、一瞥して「その黄色(可視光線)の波長は570ナノメートルくらいだね?」などとはいえません。それがはっきりいえたら、ちょっとおかしいですよね。

それどころか、人間はちょっとした長さすらも測れません。なにかを見ただけで、正確に「それは2メートル50センチだよ」などとはいえない脳を持っているのです。そして、このはっきりと価値を測れないところが人間のよさであり、また弱点でもあります。なぜ、弱点になるのでしょうか?

それは先の例でいうと、自分は黄色のコップだと思っていても、まわりの人たちが「いや、黄緑だよ」といいはじめると、「もしかしたら黄緑かも」と思うようになる面があるからです。このように周囲の多くの人と同じように考え、行動させるように強制されることを、「同調圧力」といいます。

これは、アッシュの同調実験という有名な実験で証明されています。その実験は、ある学生8人に対して棒線を表示して見せ、次にそれと同じ長さの棒線を、それぞれ異なる長さのA、B、Cの3本の線から選ばせるもの。

実は、このとき被験者ひとりを除き全員がサクラなのですが、実験の結果、サクラがみんな同じ回答(誤答)をする同調圧力にさらされると、被験者の誤答率が約37%にまで上がったのです。ちなみに、被験者がひとりきりで回答した場合は、99%以上が正解するような簡単なテストです。

これは、人間が自分の基準だけを参照してものごとを判断する生き物ではないということを示しています。「みんなの意見」をとらえる、いわゆる「空気を読む能力」も大事だからです。しかし、根拠のない噂によって、日本中でトイレットペーパーが不足した現象にも表れているように、危機的な状況のときにはなおさら、人は多数者の意見に流されやすくなる傾向があり、そのことがさらに危険な状況を招くことがあると知っておくことが必要です。

■学びは自分を守るための武器

多くの人が流されるような多数者の基準に漫然としたがうのは、危険です。

なぜなら、その基準から排除される人をつくり上げ、追い詰めていくことにつながるからです。そして、気づかないうちに、あなた自身が追い詰められる対象になるかもしれません。

実際に、人類の歴史を振り返ると、同調圧力によってマイノリティが簡単に排除の対象となってきました。なぜマイノリティが攻撃されやすいかというと、リベンジされるリスクが低いからです。いじめ返されるリスクが低いから、いじめてしまう。これはいまでも世界中で起きていることで、わたしたちは進歩したように見えて、まだまだ野蛮な社会に生きているのです。

ただし、力のあるマイノリティであればいじめられません。ユダヤ人が必死で自分の子どもたちを教育し、知識や教養を身につけさせ、さらには子どもの頃からお金を稼ぐ方法を教えるのはそのためです。民族の数としては少なくても、身につけた知識や教養は自分を守ってくれます。そして、それをもとにして稼いだお金で政治的にロビー活動を展開し、政財界と密接につながっていれば簡単には攻撃されないということも知っているのです。「わたしたちを攻撃したら、あなたたちが危なくなる」というメッセージを発し続けることができるからです。

そこで、ユダヤ人は子どもの教育に多額のお金を投資します。たとえばニューヨーク州の豊かな町では、ユダヤ系アメリカ人と非ユダヤ系アメリカ人の家庭で、平均教育費が約1・3倍もちがうといわれています。それほど教育に投資するのは、教育によって得た知識や教養は、世界のどこへ行ったとしても使えるリソースだからです。一度身につけた教養は奪われません。世界のどこへでも持っていけるし、自分を簡単に攻撃させないための「鎧」にもなります。

その意味では、「学び」はもっとも効率のいい投資であり、単なる学歴や趣味といったものではなく、文字どおり自分を守るための「武器」であり「防具」といえるでしょう。

もし、あなたが少数者の側にまわってしまったときにも(そのリスクはつねにあります)、自分の基準を持ち、自分の頭で考える行為そのものがあなたを救ってくれます。「みんなはAだと思っているけれど、わたしはBが正しいと考える」という揺るがない基準を持てなければ、自分を守ることができず、簡単に排除の対象にされるかもしれません。

客観的に考えた自分の基準や意見を持つこと、いわば自分だけの「見る目」をつくることは、自分を守るためにも必要な力だと思います。

ですから、いま、「学ぶことで自分を高めたい」と考えている人には、自分を高めるだけでなく、価値を測る基準をつくるという視点を持つことをおすすめします。もっといえば、自分の基準をつくる営みこそが、「学び」です。先に書いたように、もともと人間の脳は価値を測りにくい仕組みを持っているからこそ、なおさら自分の基準をつくるために学びが大切になるのです。

価値を測る基準がはっきりしている人は、どんなに世間がざわついているときでも、自分の考え方や判断基準に明確な足場があるため、あまり不安な気持ちにとらわれることがありません。

逆に、まわりの世界が動いたと感じたときに、すぐに自分の意思でその動きに乗ることもできます。つまり、「みんなが行くからこっちへ行く」ではなく、「次にこれがくる」と自分の頭で考えて、すぐに行動ができるのです。

学ばない人は、つねにまわりの人と比べなければ、自分の基準を設定できません。しかし、学んでいる人は、いま起きている現象だけでなく、歴史上の人物や出来事を参照できます。自分のなかに歴史という長いスケール(知識の蓄積)を持っていて、そのスケール上で、いまの自分の位置を測ることができるのです。わざわざまわりにいる人と比べる必要はありません。

そして、たとえ失敗したとしても、他人に振り回されたわけではなく、あくまで自分の基準にもとづいて判断した結果であれば、納得感も得やすいのではないでしょうか。

■答えが出ないことを「そのままにしておく」力

「考える」という行為がそれほど得意ではない人もいると思います。そんな人が「自分の基準」をつくっていくには、具体的にどうすればいいのでしょうか?

まず、多くの人がものごとを一般化して考えているようなときに、ひとりで考え直すくせをつけるのがいいと思います。よく「みんなこうしている」「こんな人は〜のはずだ」という言い方を耳にするときがありますが、まわりの人がふつうとみなしている意見を、あらためて自分の頭で考えてみるのです。

たとえば、多くの人は「不倫はよくない」といいますが、「よくないのはなぜ?」と考える人は、あまり多くないかもしれません。また、考えていても、それを口にすると身勝手なバッシングをされかねないので、おおっぴらにいいづらい場合もあるでしょう

でも、自分のなかでだけは、いくらでも考えていいわけです。一般的に不倫がよくないとされるのは、相手に配偶者がいてその人が苦しむとか、子どもが嫌な思いをするとか、夫婦の約束を破ることになるなど、様々な理由があると思います。単なる嫌悪感からよくないとする意見もあります。

そのときに、自分がよくないと思うのはどの理由か? なぜ自分はそう思うのか? よくないという人はどんな理由からなのか? そう理由を求めるくせをつけていく。そして、もしその理由が自分のなかでうまく腑に落ちなければ、腑に落ちるまでそのままにしておいてもいいのです。答えが出ないものごとを自分のなかに抱えておける力、それこそが知的体力です。

多くの人は白黒はっきりすれば気持ちよく感じるし、それをワンフレーズで表現できると「頭がいい人」「みんなの気持ちがよくわかる人」とみなされるのかもしれませんが、わたしはちがうと考えます。厳しい言い方をすれば、それは思考が停止した状態であり、このような態度では、たとえばワンフレーズで多くの人を気持ちよくさせるポピュリストのような人たちの餌食になるだけです。

そうではなく、わからないことを抱えておき、自分で「わかった」と納得できるまで考えるのをやめず、長いあいだモヤモヤした感覚を楽しめるかどうかが重要なのです。

いまはインターネットで情報を得ても、SEO(サーチ・エンジン・オプティマイゼーション:検索エンジン最適化)によって、自分にとって聞こえのいい情報しか得ていない面があります。また、SNSも自分と似た意見や知的好奇心を持つ人だけが集まり、特定の集団内に閉じ込められたような状態になるため、多様な意見を集める場としては不適切でしょう。

こうした環境のなかで学んでいくとなると、むしろ自分とは合わない意見を自ら積極的に取り込み検討していく姿勢がなければ、逆に危険な状態になります。

答えがない状態に甘んじるのは、本来とてもエネルギーが必要なことです。答えを出せたほうがはるかに楽だし、ビジネスでは少しでも早く答えを出して手を打つことが求められるため、結果や利益をすぐに出せる方法(考え)が正しいとされる場合も多いのでしょう。

でも、特定の考え方をすばやく摑んで理解するのは、知性でもなんでもありません。むしろ、自分とちがう意見をどれだけ抱えていられるか─異なる意見や考えのなかで右往左往できるか─。

それが本当の知性のあり方であることを、できるだけ多くの人に気づいてほしいと思います。

※今コラムは、『人生の武器になる「超」勉強力』(プレジデント社)より抜粋し構成したものです。

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 写真/塚原孝顕