ジャッキー・ロビンソンは、MLB(メジャーリーグ)新時代を切り拓いた。 差別を受けても、それに必死に耐え、ひたむきに野球に取り組み実力を発揮し結果を残す。そしてチームメイトの信頼を勝ち得て、野球を愛する者の心を動かした。遂にカラーライン(黒人選手の不採用)の壁を打ち破ったのだ。 現役を引退したのは1956年…実はこの年の秋、ジャッキーは『日米野球』に出場。日本の野球ファンに最後の勇姿を披露している──。

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■『日米野球第1戦』での衝撃

ブルックリン・ドジャース(現ロスアンジェルス・ドジャース)にジャッキーが20世紀初の黒人選手として入団をしたのは1947年。
それから10年の歳月が流れた。
もう、黒人メジャーリーガーは珍しい存在ではなくなっていた。1950年代に入るとMLB全球団に黒人選手が在籍するようになり、露骨に差別を受けることもなくなった。

ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースに惜しくも敗れるも、ナショナル・リーグを制したドジャースが1956年10月18日に来日する。
そのメンバーにはジャッキーのほかに、ドン・ニューカム、ロイ・キャンパネラ、ジム・ギリアムら黒人選手が名を連ねていた。いずれもチームの主力だ。

当時の『日米野球』は現在とは違い、真剣勝負の色合いが濃かった。少なくとも日本サイドにおいては──。
選ばれれば出場を辞退する者はほとんどおらず、金田正一(国鉄)、稲尾和久(西鉄)、杉下茂(中日)、川上哲治(巨人)、中西太(西鉄)ら日本のトップ選手たちが顔を揃え、メジャーリーガーたちに挑んでいった。長嶋茂雄、王貞治が巨人に入団する以前の話だ。

試合数は多く全19戦。「全日本」「全セ・リーグ」「全パ・リーグ」「全関東」「全関西」「巨人・南海連合軍」といった選抜チーム、また単独チームとして読売ジャイアンツを相手にドジャースが胸を貸すという図式だった。

来日翌日の10月19日、後楽園球場においてドジャースは読売ジャイアンツと対戦する。ジャッキーは、「5番サード」としてスタメン出場した。
2回の第1打席は四球で1塁に歩く。
そして4回に迎えた2打席目は、一死1塁の場面。1塁ベース上には、ライト前ヒットを放ったピー・ウィー・リースが立っていた。

マウンドにいたのは、先発投手の堀内庄。この年に14勝2敗の成績を残し、最高勝率のタイトルを獲得していた21歳の若きエース。そんな彼に上手くカーブを2球投げ込まれ、ノーボール2ストライクとジャッキーは追い込まれていた。
続く3球目。堀内は1球外すつもりでアウトコースにウエスト。明らかなボール球だった。しかし、この半速球に対してジャッキーはフルスイング。打ち返されたボールは、左翼ポールを越えるほどに高く舞い上がり場外へと消えていった。

手を叩きながら3塁ベースをまわるリース。ジャッキーもゆっくりとダイヤモンドを一周する。場外ホームランなど滅多にお目にかかれない時代だ。スタンドは、あまりの衝撃に静まり返った。

「2球連続してカーブだったから、次はストレートだろうと思って待っていた。コースは外れていたね、でも自然にバットが出たよ」(ジャッキー)

17戦目のドジャースvs.全日本でジャッキーは、2回に金田正一からもセンター・バックスクリーン近くにホームランを放っている。
ちなみに、この年の『日米野球』はドジャースの14勝4敗1分けに終わった。

■人権運動に生涯を捧げて

この『日米野球』を最後にジャッキーはユニフォームを脱ぐ。
だが、彼の闘いは、ここで終わりを迎えたわけではなかった。いや、さらに激しく人種差別との闘いに身を投じたのである。

「メジャーリーグに入った時は、差別を受け続け苦しい日々を過ごした。それを克服し、私は活躍することができた。私の後に多くの黒人選手たちが最高峰のリーグでプレーできるようになった。
でも、現役を引退した後に改めて気づいたんだ。一般社会には、人種差別がまだ根強くあることに。私は、人種差別をなくすことに生涯を捧げたい」
そう話したジャッキーは政治にも介入し活動を続ける。プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリと肩を組んで、差別撲滅を訴えたこともあった。

だが多忙を極め健康状態が悪化。糖尿病に悩まされ視力は低下、関節炎にも苦しむ。いつしか右眼は見えなくなった。

1972年10月24日、スタンフォードの自宅で死去。享年53。

2004年、MLBはジャッキー・ロビンソンが初めて公式試合に出場した4月15日を特別な日と定めた。
「ジャッキー・ロビンソンデー」
この日は、すべての試合において希望する選手が「背番号42」をつける、ジャッキーの勇気と功績を讃えて。
松井秀喜、イチローら日本人選手たちも「42」を背負ってプレーした。 ジャッキー・ロビンソンは、人種差別の壁に果敢に挑み、メジャーリーグを変えた男として永遠に語り継がれる──。

文/近藤隆夫