――さまざまな番組に携われて、いろいろな方とお仕事をされてきたと思いますが、特に影響を受けたのはどなたですか?

森光子さんですね。『3時のあなた』で8年間ご一緒しまして、あの人から学ぶことは多かったです。今でも教育の現場などに呼ばれると、森さんから教わったことを伝えています。

――どんなことを学んだのですか?

森さんは、いろんなタレントさんから「お母さん」と慕われていましたが、それはなぜかと言うと、皆さんが相談しに来ていたからなんですよ。当時、(フジテレビ旧社屋の)河田町の第一応接室という大きな部屋があって、本番前と本番後にそこに行けば森さんに会えるということで、有名なタレントさんたちが本当にプライベートなことや、事務所との問題とかを話に来ていたんですね。でも森さんは、相談を受けても何かを“教える”ということをしないんです。おっしゃっていたのは「私のところに離婚したいと相談しに来る人は、もう離婚の決意をしてるから、それを覆そうなんてしちゃダメ。聞いてあげることが一番いいんだから、それ以上のアドバイスはしないんだ」と。だから、僕も後輩のアナウンサーに教えようとしません。やっている姿を見て、何を学ぶかなんですよね。

――今回フジテレビを離職するというのは、どのように決めたんですか?

『新報道2001』が終了した昨年3月で辞めるという選択肢もあったんですけど、会社からもう1年いてくださいと言われて、このタイミングになりました。討論番組は、僕の中で不得手とするジャンルだったんですけど、60代になってから10年やったので、71歳までフジテレビで仕事ができたのは、あの番組があったからだろうなと思って感謝しています。

――今後はフリーアナウンサーとしてご活躍されるのでしょうか?

何も決まっていませんが、僕は「フリー」という言葉があまり好きじゃないんです。『スーパーニュース』でご一緒させていただいた木村太郎さんに「“フリーアナウンサー”って局を辞めるとステータスがあるように言われるけど、アメリカだとどこの局とも契約できない人。契約したところの名前を背負うのがプロなんだ」と言われて、僕も退職したら“フリーアナウンサー”と名乗るのはやめようと思っていました。

――そうすると、肩書はどうしましょうか…?

「アナウンサー・須田哲夫」と思っています。僕が就職してから今までやってきた仕事は、“アナウンサー”ですからね。

■フジは最先端を突破する局であってほしい

――では、これから「アナウンサー」としてどんな活動をしていく予定ですか?

今までもやっていた教育の場には行きたいですね。それを今後はどのようにやっていこうかなと考えています。あと、局アナを辞めた人の誰もやったことのないことをやろうと思ってるんです。実は秘策があるんですよ(笑)。些細なことなんですけど、「こういうこともやれるんだ」と後輩たちが思えることに挑戦したいですね。

――71年に入社されて、80年代から黄金時代を迎えたフジテレビが、最近は元気がないと言われます。良い時代も厳しい時代も、ずっとフジテレビにいた須田さんは、この変化をどう見ていますか?

テレビの世界って、絶対に波があるんですよ。僕が入社したのは視聴率が低迷していた時期でしたから、上に行く波はまたいつか来るはずです。ただ、これはぜひ言っておきたいのですが、「フジテレビのブランド」という言い方をすることがありますよね。実はその考え方が、今の一番の障害なんじゃないかな。テレビ局にブランドなんてないんですよ。ブランドって、1つ作ったらそれを守っていくものじゃないですか。でも、フジテレビはこれまで常に新しいものを作って、時代の最先端にいる局だったんです。

もともとNHKや日本テレビ、TBSに対して後発局だったので、どうしても新参者で下に見られていた空気があった。でも80年代になって視聴率が良くなって、フジテレビの真似をするようなことが出てくると、「うちはブランドなのかな?」と勘違いしてしまう。違うんですよ。大変なこともいろいろやらされましたが(笑)、他がやっていないことに対して「さぁ行けー!」って背中を押してくれたから、こんなに楽しめた会社はないと思いますね。失敗することも多かったですが、それでもいいじゃないですか。ブランドを守ろうとして失敗したら、余計惨めですよ。だからこれから先も、フジテレビは最先端を突破する局であってほしいですね。そういう気持ちがあれば、テレビはずっと生きていくと思います。

●須田哲夫
1948年生まれ、東京都出身。71年慶應義塾大学卒業後、フジテレビジョンに入社。以来、『3時のあなた』『おはよう!ナイスデイ』『タイム3』といった情報番組、『スーパーニュース』『新報道2001』といった報道番組を担当。19年3月31日でフジテレビを離職する。