女優の吉田羊が、読売テレビ・日本テレビ系単発ドキュメンタリー番組『吉田羊、プラハ・ウィーンへ ヨーロッパに嫁いだ なでしこ物語』(2月3日15:00~16:25)に出演する。

  • 吉田羊=読売テレビ提供

この番組は、今からおよそ120年前、激動のヨーロッパに嫁ぎ、女手一つで7人の子どもを育てあげ、「汎ヨーロッパの母」と呼ばれるようになった日本人・クーデンホーフ光子の壮絶な人生を紹介するもの。吉田が、ロマンチックな街並みから「中世の宝石箱」とも呼ばれるプラハ(チェコ)や、世界一住みやすい都市と言われているウィーンなど、観光地としても脚光を浴びる華やかな街を巡りながら、光子の人生の足跡をたどっていく。

1874年、東京・牛込(現在の新宿区)に生まれた光子は17歳の時、当時オーストリア・ハンガリー帝国の代理公使だったハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵に見初められ、19歳で結婚。西洋人貴族と日本人の初めての国際結婚といわれたシンデレラストーリーだった。

しかし、日本での幸せな暮らしもつかの間、夫に母国から帰還命令が下され、光子は子供をつれて夫の祖国オーストリア・ハンガリー帝国に渡ることになる。ところが、ほどなくして夫が病に倒れ急逝。遠い異国で孤立無縁の状態で7人の子どもを女手一つで育てることになった光子は、相続問題や戦争など、さまざまな逆境に翻弄(ほんろう)されながら「黒い瞳の伯爵夫人」と呼ばれ、激動のヨーロッパを生き抜いていく。

子供たちに最先端の教育を受けさせようとウィーンに移り住み、息子を位の高い人々へ売り込むため社交界に積極的に顔を出すなど、時には母として、時には厳しい父として、家長として、子どもたちを育てた光子。そんな母に影響を受けた次男・リヒャルトが提唱した「汎ヨーロッパ主義」が、現在のEUができる礎となったと言われている。

クーデンホーフ光子が愛したオーストリア・チェコとはどんな街だったのか、当時の生活は、風景は、どんな人々に囲まれて過ごしたのか…。明治時代に若くして見ず知らずのヨーロッパに渡った彼女の心情に重ねて、旅人・吉田羊が、光子が生きた証を探し、街を訪ね歩き、彼女の足跡や証言をさまざまな場所で集めながら、その波乱万丈の人生をたどる。