暦では秋と言っても、まだまだ汗ばむような陽気の今日この頃。クールダウンしたいなぁと思う人も多いことだろう。そんな人にぴったりなのが、今、東京・上野の森美術館で開催されている「怖い絵」展だ。ひと足先に展示を観てきたのだが、身も心も凍りつくような恐ろしい絵がわんさか……。会場での恐怖体験を綴っていこう。
この「怖い絵」展は、ベストセラー『怖い絵』シリーズ刊行10周年を記念し、著者である中野京子氏が監修した美術展。ただ単に視覚的に怖い! だけでなく、それぞれの作品に隠された背景を知ることでゾッとさせられる展示演出がミソとなっている。作品数は、なんと約80点。世界各国から粒ぞろいの怖い絵が集まっているので、いくら肝がすわった人でも会場で思わず「コワッ」っと心の声が口を出てしまうに違いない。
「怖い絵」展を思いっきり楽しむ(怖がる)ための方法
そもそも美術展の楽しみ方というと、作品にまつわる知識うんぬんよりも、絵をじっくり眺めてしみじみと良さを噛みしめるのがいい。ただ、この「怖い絵」展に関しては、作品脇にある解説パネルを読み込み、"なぜ怖いのか"という知識を頭に入れたうえで絵を観て欲しい。例えばこの絵だが……
一見すると「ん? 怖そうな絵だなぁ」ってぐらい。もしかしたら、セクシー系の美女に見惚れてしまう男子もいるかもしれない。しかし、この女性は魔女で、彼女の妖艶な魅力に誘われて魔酒を飲んでしまった人が豚に変えられてしまっているのだ。鏡に映る男性も、今まさに魔女から魔酒を差し出され……そんな恐ろしいワンシーンが描かれている。
また、作品によっては「中野京子's eye」という同氏ならではの着目点が書かれた解説パネルもあるのだが、これも必見。作品に関する目から鱗の小話や歴史的背景などが書かれており、読めばグンと作品への知識と愛着が深まる。
と、解説を読んでこそ、作品の面白味やゾッとするような恐怖を感じられるのが同展の一番の魅力と言えるのだ。また、女優の吉田羊氏が担当している音声ガイドもオススメ。「怖いテーマに合わせて、低いトーンでしゃべるようにしました」と言うように、その落ち着いた語り口調がより一層、恐怖心をかきたててくれる。
展示は、1~6章までテーマ分けされており、それぞれ1章「神話と聖書」、2章「悪魔、地獄、怪物」、3章「異界と幻視」、4章「現実」、5章「崇高の風景」、6章「歴史」となっている。
一番の目玉! 奇跡の恐怖画「レディ・ジェーン・グレイの処刑」
ここからは、会場で個人的に「恐い!」と思った絵をいくつか紹介していきたい。まずは、同展の目玉ともいえるポール・ドラローシュの大作「レディ・ジェーン・グレイの処刑」。"9日間の女王"として知られる16歳のイングランド女王ジェーン・グレイが処刑される瞬間を描いたショッキングな一作だ。
実際に目にして衝撃的だったのが、その大きさ。なんと縦2.5m、幅3mのビックサイズなのである。巨大でありながらも緻密な描写は、まさに圧巻のひと言。今まさに腹ばいになって斬首されようとするジェーン、台の下に敷かれた血を吸うための藁、今にも失神しそうな侍女、その膝に置かれたジェーンのマントと宝石。絵を前にしたら、これら演劇的な細かやかな描写に注目してほしい。戦慄のあまり立ち尽くすこと必至だ。
残虐な海の魔女・セイレーン
ハーバード・ジェイムズ・ドレイパー作の「オデュッセウスとセイレーン」は、古代ギリシャの英雄オデュッセウスと屈強な船乗りたちが、海の魔女・セイレーンたちに襲われているシーンを描いたもの。
マストに縛り付けられているのがオデュッセウスで、彼だけ蜜蝋の耳栓をしていなかったために、セイレーンの歌声を聞いて狂乱し、今まさに海に飛び込もうと身をよじっている。セイレーンは、半人半鳥または半人半魚の姿と考えられ、美声によって船乗りたちを困惑させ、たびたび船を沈めたという。ちなみに、サイレンの語源でもある。スピード感あるドラマチックな描写に、見ていると心がハラハラする。
眠り、それはこま切れの死
恍惚の表情で眠る女性の上に、謎の魔物が……。このインパクト大な作品は、ヘンリー・フューズリ作の「夢魔」。ミステリアスながら強い絵力が感じられる一作とあって、どこかで見かけて印象に残っているという人も多いはず。
同作の中野京子氏の解説文では"眠りはある意味、こま切れの死だ。夜がその黒々とした翼を拡げるたび、幾度も幾度も自我を完全喪失させねばならない。そして疑い続けなければならない"と書かれていた。眠っている間に何か恐ろしいことがあるのではないか……この絵を見ると、そんな恐怖心が湧いてくる。
貧しい母娘の行く末は……
「不幸な家族(自殺)」と題されたこの作品は、二コラ=フランソワ=オクターヴ・タサエールが、屋根裏部屋に住む貧しい母娘の自殺の場面を描いたもの。
すでに亡くなっていると思しき娘、生気を失っている母の目……。一片の救いもない、そんな絶望感に満ち満ちた雰囲気がにじみ出ており、見ていて恐いというか辛い。この絵が描かれた当時は、貧しい労働者階級の人々の高い自殺率が社会問題になっていたという。同作の画家も同じく苦しい生活を送っており、絵と同様に自殺を遂げた。
こんなセザンヌの絵、見たことない
ナイフを振りかざす男、身動きを封じられた金髪の女性、そんな鬼気迫る殺人現場を描いた「殺人」という絵を描いたのは、あの有名なポール・セザンヌ。静物画や人物画のイメージが強いセザンヌが、こんなショッキングな作品も残していたとは意外だ。
荒々しく、そして生々しい描写が、なんとも恐怖をそそる一作。セザンヌは20代後半~30代前半にかけて、こういった暴力的やエロティックな作品を数多く描いていたが、同氏のイメージと合致しないという理由で、露出が控えられてきたのだという。凶暴さがむき出しの今作では、セザンヌの知られざる一面が垣間見られる。
もしや作者は「切り裂きジャック」?
19世紀末のロンドンで5人の娼婦を殺害し、世間を恐怖に落とし入れた殺人鬼「切り裂きジャック」。犯人はいまだ不明ながら、その有力候補者として名が挙がっていたのがこの「切り裂きジャックの寝室」の作者であるウォルター・リチャード・シッカートだ。
同氏は、事件にインスパイアされた絵をいくつも描いており、この作品もジャックが住んでいたとの噂を聞いて借りた一室で描いたもの。見ての通り、絵に人物は誰も描かれていない。だが、なぜか危険に満ちた不穏な空気を感じさせる。まるでジャックがその場にいるかのように……。
絵を知ることで、絵の違う表情が見える
本来、美術展は絵は"見て楽しむもの"。だが、同展は"読んで怖がるもの"と言った方がふさわしいかもしれない。解説文を読んで、知識を頭に入れることで目の前の名画たちがまったく違った表情を見せてくれる。その表情こそが、同展では"怖さ"であり、絵に隠された真実を知ると、どんどん恐怖心が膨らんでくるのだ……。
"恐いもの見たさ"とはよく言ったもので、恐いとわかっているのに見たくなるし、知りたくなる。同展には約80点もの作品が展示されているにもかかわらず、集中のあまりあっという間に回り終わり「あれ? もう終わり?」と思ったほど。身の毛もよだつ恐怖を感じつつ、同時に名画の奥深さも知ることができる同展。ぜひ、まだ暖かい今のうちに名画の知られざる恐怖を体感してみて欲しい。
会期は10月7日~12月17日(会期中無休)、開館時間は10~17時(入場は閉館の30分前まで)となっている。