川越市は埼玉県のほぼ中央に位置し、江戸時代には川越城の城下町として、"小江戸"と呼ばれ栄えた歴史のある町だ。江戸時代以前から存在する寺社や、明治・大正・昭和の各時代の風情を味わえる町並みが残されており、街歩きをするだけで、まるでタイムマシーンでタイムトラベルをするような気分を味わうことができる。そんな川越の街の見どころを市内の川越高校出身の筆者が案内しよう。

川越駅から本川越駅付近まで続く、活気ある商店街「クレアモール」入り口

日光、久能山と並ぶ三大東照宮

川越市内の主な駅には、JR・東武東上線の川越駅、西武新宿線の本川越駅があるが、今回は川越駅から歩き始めることにする。川越駅に下り立ったら、まずは、川越を代表する観光名所「川越大師喜多院」境内にまつられている「仙波(せんば)東照宮」を目指そう。仙波東照宮までは、川越一の繁華街「クレアモール」を抜け、東照宮中院(なかいん)通りを経由して、徒歩で約20分ほどだ。

東照宮と言えば、徳川家康をまつる神社というのはご存じだろう。栃木県の日光東照宮と、家康の遺体が当初埋葬された静岡市の久能山東照宮が有名だが、これに仙波東照宮を加え、「三大東照宮」とされる。

「三大東照宮」のひとつとされる仙波東照宮は、川越大師喜多院境内にまつられている。日光東照宮に比べるとその規模は小さい

なぜ川越に東照宮があるのだろうか? それは、家康の側近として政治に深く関与し、「黒衣の宰相」とも呼ばれた天海僧正が喜多院の住職を務め、家康の死の一年後、遺骨を久能山から日光に遷す際、喜多院に四日間逗留し、供養したことに由来するそうだ。なお、遺骨は久能山に残されているという説もある。

ちなみに"仙波"というのはこの辺りの地名でその昔、仙芳(せんぼう)仙人が洋々たる海だったこの場所の海水を法力で除き、その地に尊像をまつったのが、喜多院の前身である無量寿寺のはじまりとする伝説に由来するようだ。つまり、"仙芳"がなまって"仙波"になったというわけだが、仙人の名前が地名の由来だなんて、ロマンを感じずにはいられない。

●information
仙波東照宮
埼玉県川越市小仙波町1-21-1
アクセス: JR・東武東上線の川越駅から徒歩約20分

見どころいっぱいの川越大師喜多院

木立に囲まれ静かな仙波東照宮から、多くの人々でにぎわう喜多院の本堂(慈恵堂)に向かって歩いて行くと、陽射しがとてもまぶしく感じられる。喜多院を訪れたなら、本堂のほか、江戸城から移築された客殿と書院は必ず拝観したい。寛永15(1638)年の川越大火により山門を除く喜多院の建物は全て焼失してしまうが、再建に際し、天海僧正を父のように慕う三代将軍・家光が、江戸城の御殿を移築するように命じたものだ。

川越大師喜多院本堂(慈恵堂)

建物内には、かつてNHKの大河ドラマで話題となった家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)の「化粧の間」や「家光誕生の間」、さらに当時の湯殿(風呂)や厠(トイレ)なども残され、とても興味深い。

解説によれば、当時の将軍は湯殿では襦袢(じゅばん)を身につけたまま湯浴みをしたという。また、厠は二畳半ほどの広さだが、用を足すときは四隅を警護の者が守り、穴の下ではくみ取り役が桶を構えていたという。これでは風呂もトイレもスッキリしないと思うのは、筆者だけではないだろう。

喜多院の五百羅漢は、表情が豊かで見ていて飽きることがない

さて、建物を出たら、有名な「五百羅漢(らかん)」も拝観しよう。江戸時代の天明2(1782)年から約50年にわたって彫られた538体の石仏群は、酒を酌み交わす者、寝そべって腰をマッサージされる者など、まるで生きた人間のように表情豊かに表現されており、見ていて飽きることがない。このほか、喜多院には"七不思議"の伝説なども伝わり、伝説に登場する場所を探してみるのも面白いだろう。

●information
喜多院
埼玉県川越市小仙波町1-20-1
アクセス: JR・東武東上線の川越駅から徒歩約20分
建物・五百羅漢拝観料:大人400円、小・中学生200円

川越城址と『とおりゃんせ』発祥の地

城下町・川越に来たなら、やはりお城を見ないわけにはいかない。次は、川越城本丸御殿を訪ねてみよう。喜多院の境内を北に出ると、千葉の成田山の川越別院がある。その先の県道を渡ると、ここから先は住宅地の中のやや入り組んだ小道になるが、丁寧に道標が設置されているので迷うことはないだろう。

川越城富士見櫓跡の石碑

途中、天守閣のない川越城で、天守閣の代わりの役割を果たしたという「富士見櫓(やぐら)」跡に立ち寄るのもオススメだ。現在は、小高い岡の上に神社がまつられているだけで、木々が生い茂って眺望もないが、かつては川越城下はもとより、その名からすれば富士山も一望できたに違いない。

富士見櫓跡から元の道に戻り、少し歩けば川越城本丸御殿に到着する。川越城の歴史は室町時代に遡り、その後、戦国時代には小田原北条氏の城のひとつとして、豊臣秀吉に攻められたこともある。江戸時代になると、江戸城の北の守りとして重要視され、代々の城主のうち8人までもが老中・大老を務めるなど、まさに「老中の居城」であった。

川越城本丸御殿玄関。本丸御殿は2008年9月~2011年2月にかけて、建物を全面的に解体して組み直す保存修理工事が実施された

現在の本丸御殿は、江戸時代末の弘化3(1846)年に、城主の居所である二の丸御殿が火災によって焼失したため、当時空き地だった本丸に、嘉永元(1848)年に建てられた本丸御殿のうちの一部を保存したものだ。明治維新後は、役場(入間郡役所)や武道場、たばこ工場、中学校校舎として使われたという。

本丸御殿の家老詰所では、図面を囲んで家老たちが相談している様子が再現されている

本丸御殿の見学を終えたら、道路を挟んで向かいの初雁公園の一角にまつられている、わらべ唄『とおりゃんせ』発祥の地とされる三芳野神社に立ち寄ってみよう。『とおりゃんせ』の最後は、"いきはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ"という、ちょっと怖い歌詞になっている。

三芳野神社境内の「わらべ唄発祥の地」の石碑

これは当時、三芳野神社は川越城の城内にあり、庶民がお参りを許されるのは、年に一度の大祭や七五三の祝いなど特別な場合だけだったことに由来しているとか。城内では警護の侍が眼を光らせていて、帰りは荷物チェックなどが厳しかったことから、このような歌詞が生まれたというのが有力な説だ。

●information
川越城本丸御殿
埼玉県川越市郭町2-13-1
アクセス: JR・東武東上線の川越駅より、イーグルバス「小江戸巡回バス」で本丸御殿バス停下車徒歩すぐ
入館料: 一般100円、大学生・高校生50円

川越城本丸御殿の歴史を堪能したら、今度は明治・大正・昭和にタイムトラベルをしてみてはいかがだろうか。川越城本丸御殿から市役所前を過ぎ、「札の辻」交差点方面へ足を進めると、明治・大正・昭和の各時代の風情を味わえる町並みが広がる。もちろん、川越名物の"あの高級グルメ"もお待ちかねだ。続いてはそんな街歩きを紹介しよう。