TSUTAYAが主催し、プロ・アマ問わず映画の企画を募るコンテスト「TSUTAYA CREATORS' PROGRAM」(以下TCP)が昨年に引き続き開催が発表され、企画書のエントリーが先月13日に締め切られた。受賞作には最低5,000万円の製作費が約束され(第1回となる昨年は上限5,000万円)、日本映画界にとって「新しい才能と作品企画を生み出す場」として業界内外から注目を集めている。

その審査員を2年連続で務めるのが、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズや『永遠の0』など数多くのヒット作をプロデュースしてきた阿部秀司氏。1986年6月に制作プロダクション・ROBOTを設立し、60歳を機に2010年3月に独立。その後もプロデューサーとしてエンターテイメント界を牽引している。阿部氏はTCPの何に惹きつけられ、どのような可能性を感じているのか。本音を探った。

TCPの今後に大きな期待を寄せている阿部秀司氏 撮影:大塚素久(SYASYA)

――第1回となる昨年は474作品が集まりました。

映画の作品企画がここまで集まるのはすごいことです。私が審査させてもらったのは最終選考に残った7作のみでしたが、さすがにそこまで残ってきただけあってそれぞれが作品としてきちんと成り立っていました。多くのクリエーターがTCPに興味を持ったのは、やはり最大5,000万円という製作費。誰もが前のめりになって「やってみよう」と思ったのではないでしょうか。

――審査員のオファーを受けようと思った一番の理由は何ですか?

何よりも魅力的だったのは、金額面における「本気さ」。5,000万円あれば、確実に映画が作れるんです。これは決して半端な額ではありません。ぴあ(フィルムフェスティバル)では、製作援助システム「PFFスカラシップ」がありますが、そこまではかけない。それでも、石井(裕也)くんはよく作ったとは思います(第19回「川の底からこんにちは」)。だからこそ、TSUTAYAが用意する5,000万円という額は本当にすごいことなんです。

――審査する上で重要なポイントは?

「オリジナル性」と「エンターテイメント性」です。ぴあでも審査をしたことがありますが、ぴあは「作家性」を重視する傾向にあります。小さなこと、狭い範囲を深く掘り下げるような文学というか。一方のTCPは明確に「エンターテイメント」に振り切っているので、コンテストとして住み分けできていると思います。

――阿部さんも数多くのエンターテイメント作を手掛けられてきましたね。

私がいたROBOTでは、「スプラッター、バイオレンス、エロスはやらない」を社是としていました。決してカッコつけているわけではなくて、それが自分のスタイルなのではないかと。決して嫌いではないんですよ? だからこそ、『寄生獣』に関わるかどうかはすごく迷いました。(監督の)山崎(貴)が私のところまで漫画を持ってきて「ぜひやりましょう」と。全部読むと、確かに面白かった。ただ、描写が刺激的過ぎるのではないかと思ったんです。

でも、山崎から「『寄生獣』は"バディもの"です」と説得されて、なるほどそういう見方もあるなと。基本的に山崎は私が「やる」と言わなければやらない。そんな自然装置が備わっているようです(笑)。そういう約束を書面で交わしているわけではないんですが、昔からずっとそうやってきました。

――そういう山崎監督の熱意にも通じると思いますが、TCPの最終審査はプレゼン形式で行われます。日本映画の監督がプレゼンするのは珍しいことだそうですね(第2回となる今年は11月に最終審査が行われる予定)。

「熱意が伝わる」という点では画期的ですが、一番の問題は彼らがプレゼンに慣れてないということ。まだまだスタイルが確立されていないと率直に感じました。もちろん、一生懸命さは伝わりましたが、今後応募する方々にはプレゼンターとしてのパフォーマンスも磨いていってほしいなと思います。ただ、初めての試みですからね(笑)。不慣れなのはしょうがないと思います。

TCPで一番驚いたのは、映像業界に関わる「現職」の人が多かったということ。今の仕事と並行してやるのは、本当に大変でしょうね。グランプリを獲った中江(和仁)なんか、プレゼン用の映像を作るために瀬戸内海ロケまでしたんですから。その熱意は伝わりました。ただ……映像自体はあまり好きじゃなかった(笑)。企画内容は良かったんです。

熱意から具体性に発展した時に、プラス面とマイナス面がある。事前に脚本を読んで面白いと感じていても、プレゼン用の映像がそのイメージと違っていたらマイナスの評価になってしまいます。それでも企画の面白さが勝るような「説得力」が大事だと思います。

――映画化には、そういう「説得力」も必要になってくるわけですね。『ALWAYS 三丁目の夕日』は映画化に反対する意見も多かったと聞きました。どのように周囲を説得していったのでしょうか?

自分の中で「マーケットがある」という確信がありました。3頭身ぐらいのキャラクターが動いている原作なので、それが周囲には映像に結びつかなかったんでしょうね。あとは、「昭和の話を観る人がいるのか」という意見もありました。

でも、私は90年代になんとなく「昭和ブーム」を感じていて。例えば、横浜のラーメン博物館ができたのが1993年。内装は昭和をイメージし、お店を競争されることで高いクオリティーを保って成功を収めました。池袋にあるナンジャタウンにも、昭和のムードが漂う店がありました。台場一丁目商店街もレトロ感が受けていた。大分の豊後高田には、取り残された商店街がありましたが、あるアイデアマンはそれを「レトロ」に置き換えて、集客に成功しました。

世の中にはたくさんの「昭和」があふれていましたが、映画には「昭和」がなかった。潜在的なブームを感じていて、何よりも「自分自身が昭和を愛していた」から、何としても映像化したいと考えたんです。反論や説得できる情報を用意していましたが、さらにパイロット版の映像も作りました。予算1,000万に対して、結果的には倍かかってしまいました。もうしょうがないなと(笑)。でも、その約3分のCG映像で多くの人の態度が変わりました。

――次回応募する方々の参考となるエピソードだと思います。これからのTCPに期待することはありますか。

TCPのスタイルや色が出てくるといいですね。そこで大切になってくるのは、繰り返しになりますが「エンターテイメントに特化すること」だと思います。まずは、TCP発の作品をローンチすること。自分が審査員としてかかわっている以上、選んだ責任も生じるわけですからここは勝負です。きちんとした作品を世に出して、結果を出すところまでいけば、一気に注目度は上がります。最近は漫画原作の映画が多くなりましたね。もちろん、そういうのもあっていい。あっていいが、新たな面もブレイクスルーすることも皆さんには意識してもらいたいなと思います。

■プロフィール
阿部秀司
1949年8月7日東京都生まれ。1974年3月、慶応義塾大学法学部を卒業し、同年4月に広告代理店・第一企画(現アサツーディ・ケイ)に入社。コピーライター、CMプロデューサーなどを経て、1986年6月に独立してROBOTを立ち上げた。1994年、岩井俊二監督の『Love Letter』から映画事業に参入。本広克行、落合正幸、森淳一、羽住英一郎、小泉徳宏らの映画デビュー作を世に送り出した。ROBOTを退職後は2010年7月に阿部秀司事務所を設立。2015年、『STAND BY ME ドラえもん』(14年)の功績が認められ、映画製作者に贈られる映画賞・第34回藤本賞を受賞した。