女優の高橋惠子(59)が、10日に放送されたTBS系トーク番組『サワコの朝』(毎週土曜7:30~8:00)に出演し、36年前の失踪事件について真相を語った。
15歳の時に出演した映画『高校生ブルース』(1970年)でヌードを披露し、鮮烈な女優デビューを飾った高橋。その後、数多くの青春映画に出演し、70年代を代表する人気女優へと登り詰めるも、1979年の舞台『ドラキュラ』を突然投げ出し、若手作家と共に海外へ失踪したことから"愛の逃避行"と呼ばれて世間を騒がせた。1982年、27歳で映画監督の高橋伴明氏と結婚。それを機に、芸名を「関根恵子」から「高橋惠子」に変えた。
この失踪について、高橋は「これはなかなか一口で言えないことですけども」と前置きしながら、「若気の至りというのか…その時は死ぬつもりだったものですから」と当時を思い返した。理由については「演じることが嫌になったというわけではないんですけども…ある事情から」と多くを語ろうとしなかったが、司会の阿川佐和子から「恋愛絡み?」と聞かれると「そうですね」と認め、「舞台を辞めることなんか、もってのほかですからね」と自殺を覚悟しての降板だったという。
しかし、「死んだ後のことを考えたら、自分の荷物を誰が片付けるんだろうと思ったんです」と親の顔が浮かび、「そんな思いはさせちゃいけない」と踏みとどまった。失踪中は海外で過ごし、開放感はなかったが貴重な発見があった。屋台で店員が食べ物を丁寧に焼いている姿を見た時に、「私にないのはこれだ」と思い、「見られている時には一生懸命やる。人からこうしなさいと言われたら一生懸命やる。でも、人が見ていようと見ていまいと本当に真心を込めて何かをすることが私にはないんじゃないか」と痛感した。
逃避行は112日間に及んだ。「帰るしかないし、親も心配しているわけですし。捜索願まで出されましたから」と日本に帰ることを決断したが、そこで待っていたのは周囲の批判。高橋はその状況を「"針の筵(むしろ)に座る"とはこんな感じ」と例え、「俳優さんも私が出るなら出ないという人もいた」と共演NGとされるほど、世間の風当たりは強かったという。
事務所に所属せずに個人マネージャーが付き添っていたことから、けじめはすべて自分一人。まずは舞台関係者に謝罪し、損害を賠償。自ら仕切って、記者会見も開いた。当時、記者からは「あなたは人間失格」などと厳しい追及を受けたが、「冷静に受けとめていたと思います。何を言われても悪いのは自分ですし、詫びるところは詫びてけじめをつけよう」と覚悟の上での謝罪会見だった。
その後、約1年間の謹慎期間中に考えたのは「これから」のこと。「舞台に出てはいけない」と心に決めていたが、復帰後は女優として求めてきた人の期待に応えて、ドラマや映画に出演した。そして、1982年に映画『TATTOO<刺青>あり』で高橋監督と知り合い、「運命的なもの。縁を感じました。一緒にいて自分らしくいられて、どんな逆境に追い込まれてもこの人とだったらゼロから一緒にやっていける」と感じたことが結婚へと繋がった。
そして、「"女優・関根恵子"のイメージを抱えたままの結婚生活は難しいと思ったんです。自分に近いところで女優をやってみたい」という思いで芸名を変更し、「脱がない」ことも決意。新婚旅行で海を見ながら、高橋は「関根恵子は死んだ」と思ったのだという。