中間共同体と住まい
ーーシェアハウスブームなどに代表されるように、人と暮らそうとする若者が目立つようになってきたことにはどのような背景があるのでしょうか?
友人の高木新平が言っていてなるほどと思ったんだけど、「家にいっぱい人がいて、プライバシーもないし息苦しくないの?」と聞いたら、「今の時代われわれは外にいるときひとりだから、家にいるときくらい仲間が欲しいんですよ」って。そういうことなんですよね。昔は会社とかに勤めていて、会社に行くと息苦しいくらい上司とか同僚がいて、家にいるときくらい一人でいたいと思ったんだけど、今は非正規雇用フリーランスが増えているから、外にいると一人で、逆に家に人がいてほしいという逆転が起きているのは間違いないというのが一つ。
あともう一つは、生涯未婚率の上昇とか、シングルマザーの貧困などの問題、高齢者の単身世帯増加と孤独死、単身高齢者認知症問題などがあり、個がばらばらになって生きていかなきゃいけない状況になっていると。でもこの状況が放置されたまま、何十年も続くはずは絶対ないと僕は思うんです。国が何もしなくたって、絶対自律的に「これじゃとても生きていけないよ」ってみんな思うはず。今の30歳くらいの若い男女で「一生独身だ」とか言われていても、一生独身で孤独に死んでいくつもりなことはありえなくて。恋愛ができなくたって何だって、「最後はみんな寄り添って生きていきましょう」という選択になるはずだと思うんですよ。結婚しなくてもいいと思うんだけど、みんなが寄り集まって生きていく形態っていうのは自律的に生まれてくる。自然発生的に。
それこそシェアハウスや北欧のコーポラティブハウスの方向に行くんじゃないかと。将来の共同住宅って今の孤立したマンションじゃなくて、リビングがあって周りに個室が並んでいる形態のものが増えていくんじゃないかと思いますけどね。そういうところで子育ても一緒にやり、おばあさんが歳をとったら介護してやり、飯も時々一緒に食う……ゆるやかな共同体というのが生まれてくるんじゃないかと思いますけどね。
ーー色々な家族形態の人を対象にしたシェアハウスを出している企業もありますよね
それはそれで楽しいんじゃないかな。だって今、「結婚できなくて正社員になれなかったら、一生孤独なまま終わるしかないか……」みたいな突き詰められたものがあるけど、そんなはずはないから安心牌みたいなものをみんな持ってるんじゃないかと思います。
中間共同体という言葉があって、"人間って一人で生きていけるわけじゃないし、だからと言って日本社会とかそんな大きなところでも生きていけないから、日本社会と個人の間のワンクッションとなる何百人、何十人とか中間的な共同体っていうのが必要だよね"という話です。これは、大昔だったら農村だったりとか、最近では企業だったりとかが担ってきたんだけど、農村はとっくにないし、企業社会っていうのは崩壊してきている中で、どこかで中間共同体を担うコミュニティなりアソシエーションが出てこざるを得ないだろうなと。そういう時に「住まい」みたいなものが擬似的な中間共同体として出てくるんじゃないかなと思うんですね。
社会や文化の変化はリアルな空間の隅々へ
ーー『家めしこそ、最高のごちそうである。』を2月に出されたということで、「住まい・暮らし」と関係が深い「食」についても少し聞かせてください。暮らしの面から考えたときに、現在の都市部には食の選択肢がたくさんあると思うんです。外食から総菜、自分で作るにしても野菜のバリエーションが多い。この背景には何があるのでしょうか?
日本ほど選択肢が多い国はないですね。日本の生活文化の異常なほどのレベルの高さは他の国にはないので。コンビニで売っている100円くらいのお菓子があんなにおいしい国は、日本以外にないですよ。そこは日本人ならではの、全てのものにこだわりたがるという伝統的な感覚があるんじゃないかなとは思いますけどね。例えばラーメンとかカレーとかだってものすごい進化して、ラーメンなんかは一つの王国みたいになっているでしょ。他の国だったらそこまで進化も多様化もしない。これは日本独特の世界なんだなっていう。
あと、海外と比べてみていつも思うのが、東京の特異性です。各国レストランがこれほど沢山あって、すべて美味しい都市はない。高級店じゃなくてビストロとかピッツェリアみたいなところがおいしいっていう。全ての分野で生活文化のレベルが高いということが、選択肢が多いことの最大の要因になっているんじゃないかな。でも、質が高すぎるがゆえに、人間を怠けさせるという逆効果もあったので、家庭料理だけが質を低下させているというのもありますね。
ーー関連して『家めしこそ、最高のごちそうである。』自体についても最後に聞かせてください。この本はとても読みやすさを重視してつくられていると思うんですが、そのような形で出されたのにはどんな理由があったのでしょうか?
いつも本について「難しい難しい」と言われて……、全然難しく書いているつもりはないし、未だかつてないくらい分かりやすく書いているんですけど、それでも「難しい難しい」と。一時は「分かる人に分かってくれればいいや」と思っていたんですけど、多くの人にその意味を到達させなきゃいけないな、というのを最近考えているんですよ。
やっぱり料理本を書いたのは、料理本を書いてみたかったから書いたというよりは、今まで書いてきた社会の変化とか文化の変化というものは、すでに料理とか生活の分野に来てますよということです。ITとか新しいテクノロジーが生まれて、それが社会を変えていくという変化が、ついにリアル空間の隅々までいきわたるようになった。その中で食とか自分がどういうものを食べ、どういう風に生きていくかという生活の立て方そのものも変化してきたんじゃないかっていう。そういう命題を立てていて。それで料理本につながったという話です。だから分かりやすく書こうと思って。そういうメッセージが伝わればいいなと。