放送開始から今年で40周年を迎える『マジンガーZ』。その生誕40周年を記念して、全国のケーブルTVやスカパー!などで視聴可能なCS放送局「キッズステーション」と「東映チャンネル」では「マジンガーカーニバル」と銘打ち、東映まんがまつりで上映されたマジンガー関連の作品が放送される。

水木一郎
(C)ダイナミック企画・東映アニメーション (C)東映

そこで今回は、『マジンガーZ』『グレートマジンガー』の主題歌を担当し、40周年をともに歩んできたアニソンの帝王、"アニキ"こと水木一郎が語った『マジンガーZ』40周年に寄せてのメッセージを紹介しよう。

水木一郎が語る『マジンガーZ』40周年

――『マジンガーZ』は水木さんが『原始少年リュウ』でアニソンデビューなさった翌年の作品ですね

水木一郎「そうですね。『原始少年リュウ』の後に『超人バロム・1』などの主題歌を歌わせていただいて、その流れで『マジンガーZ』ですね」

――『マジンガーZ』は70万枚を超えるヒット作となりました

水木「当時周りの先輩や同じころにデビューした仲間たちがドンドンとスターになっていくのを見て、スターってどんな気持ちなんだろう、売れるってどんな気持ちなんだろうって、いつも思っていたんだけど、いざ『マジンガーZ』が売れてヒット曲となっても、自分自身、あまり変化がなかった。それは子ども番組ということもあるし、周りからチヤホヤされるわけでもなかったので。でも、実際に視聴率が30%を超えただとか、学校で子どもたちが『マジンガーZ』の話題で盛り上がって歌を歌っているとか、そういう話を聞いて、徐々に実感していった感じですね」

――なかなか実感はしづらかったわけですね

水木「たとえば、海外で『マジンガーZ』がすごいぞって話を聞いても、『ふーん、そうなのか』ぐらいの気持ちだったんですよ。それが実際に海外に行ったら本当にすごかった。そのときと同じような感覚ですね。とにかく子ども番組ということで、大人の社会からはあまり評価されていなかったので、子どもたちの声を直に聞くまでは半信半疑でした」

――子どもたちの声というのはやはり"子どもショー"のようなステージでしょうか

水木「僕が『原始少年リュウ』を歌ったあと、『仮面ライダー』が流行りまして、後楽園遊園地に特設ステージが作られた。そこで仮面ライダーショーが始まって、僕は『仮面ライダー』の歌を歌ったり、司会をしたりして、今のヒーローショーの基本のスタイルを作ったんです。やがて持ち歌に加わった『マジンガーZ』も歌ってみたところ、子どもたちも一緒になって歌ってくれる。『仮面ライダー』に匹敵するぐらい、みんなが大声で歌ってくれるんですよ。これはビックリしましたし、気持ちよかったですね」

――子どもたちには本当にすごい人気だったんですね

水木「ゴールデンタイムに放送してくれたのもありますし、それまではロボットというと『鉄腕アトム』や『鉄人28号』もありましたが、18mの巨大ロボットに人が乗り込んで操縦するというまったく新しいタイプのもので、超合金やジャンボマシンダーといったおもちゃも爆発的に売れましたからね。ボスボロットのような個性的なキャラやアフロダイAやミネルバXといった女の子のキャラクターがでてきたりして、ギャグあり、恋愛あり、そして泣かせどころもある。やはり、そういった作品は今までになかったので、そこに子どもたちが食いついてきたんだと思います」

――その作品が40年経った今なお人気で、さらに盛り上がっていくなんて想像できましたか?

水木「これは誰も想像できなかったんじゃないかな。永井豪先生も想像できなかっただろうし、曲を作った渡辺宙明さんもそうでしょう。アニメを作った東映アニメーションももちろん、何よりも僕自身が、こんなことになるとはまったく想像できなかったですね。たとえば歌謡曲とかJ-POPというものは、PVぐらいしか絵がないじゃないですか。でも僕が歌っている『マジンガーZ』をはじめとするアニソンには絵がある。これはすごい強みですよね。視覚と聴覚の両方から攻められるわけですよ。歌を聴けば、自分が観ていたテレビの映像が思い浮かんでくる。あるいは、ストーリーは忘れていても、絵を観れば僕の歌を思い出す」

――そういったところは、アニソンならでは強みですよね

水木「かつては子どもの歌といえば童謡で、実際にはそれ以上に子どもの成長に影響を与えているアニソンや特撮ソングは低く見られていたんです。今でこそ世間の評価も上がっていますけど、それこそ当時だとあくまでも「まんがの歌」と差別されて扱われていたので、たとえ70万枚売っても、1~2万枚ぐらい売ってテレビに出ている人のほうがチヤホヤされる。でも、子どもたちに勇気とか愛とか友情とか、そういった大切なものを教えられるのはアニソンしかない。だから水木一郎は、そういったことを子どもたちにメッセージしていける歌手であるべきじゃないかと、はっきり自分は割り切って歌っていました」

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