斉昭が開設、慶喜が学び、そして謹慎した弘道館
桜田門外ノ変において、欠かせない人物のひとりとして水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が挙げられる。井伊直弼を襲撃したのは脱藩した水戸浪士であり、事件後彼らは斉昭からも追われる身となったものの、井伊直弼の政治に異を唱え、安政の大獄により蟄居を命じられた斉昭の存在は、水戸藩士に強い影響を与えていた。
その斉昭によって、1841(天保12)年に仮開館、1857(安政4)年に本開館した弘道館は、いわば江戸時代の総合大学で全国一の規模を誇った。儒教、歴史、数学などの学問と、剣術、兵学、鉄砲などの武芸の両方が重視された多彩な科目が教えられていたという。
玄関を入って正面にある来館者控えの間「諸役会所」の床の間には、堂々とした「尊攘」の書があり、水戸藩を物語っている。試験やさまざまな儀式が執り行われた「正席の間」には「弘道館記碑拓本」が掲げられている。これは弘道館の建学精神、教育方針を記したもので、草案は斉昭の腹心だった藤田東湖。水戸学の精神が簡潔に書かれていて、尊皇攘夷という言葉はここで初めて用いられた。尊皇の精神を説いた水戸学は、幕末の志士たちに多大な影響を与え、明治維新の原動力となった。「弘道館記碑拓本」は、日本の歴史を大きく変えた象徴的な存在といえるだろう。
弘道館には、ドラマチックな幕末の歴史が刻まれた部屋がある。藩主の御座所である「至善堂」とその「二の間」だ。「二の間」は藩主の子どもが勉学する場所。斉昭の七男で、後に最後の将軍となる徳川慶喜もここで学んだわけだが、時代が明治になると「至善堂」で恭順謹慎することとなったのである。襖一枚隔てたこのふたつの部屋が、江戸から明治への激動を静かに語り継いでいる。
偕楽園も斉昭によって創設
金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに「日本三名園」のひとつとして名高い水戸の偕楽園。この名園をつくったのも徳川斉昭である。開園は弘道館が仮開館した翌年の1842(天保13)年で、これは斉昭の構想によるもの。孔子の言葉に、厳しいだけではなく時には楽しむことも大切であるという意味の「一張一弛(いっちょういっし)」があり、斉昭はこの言葉が偕楽園創設の由来だと記している。弘道館で学芸や文武に励み、偕楽園で心身を休める。それが斉昭の考えだった。
偕楽園の名称は、『孟子』の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」の一説からとったもの。そこには、藩主や藩士だけではなく、庶民にも楽しんでもらうという目的があり、その点では、三名園の中でも他のふたつとは異なっていた。開放的な偕楽園は、近代の公園に近い性格を持っていて、斉昭の先進性が感じられる。
水戸黄門が隠居していた西山荘
ところで、水戸藩といえば、やはり水戸黄門こと水戸藩2代藩主徳川光圀についても触れておかなければならない。若い頃は、かなり「やんちゃ」だったとされ、日本で初めてラーメンを食べたり、生類憐みの令に反対して徳川綱吉に犬の毛皮を送ったり……と、エピソードにはこと欠かない光圀公。常陸太田市には、光圀が晩年を過ごした西山(せいざん)荘があり、当時の雰囲気を味わうことができる(建物は再建されたもの)。
ここで光圀は、後に『大日本史』と呼ばれる修史編纂事業を続けた。光圀は1700(元禄13)年、73歳で亡くなるが、編纂事業はその後も続けられ、1906(明治39)年にようやく完成された。天皇を尊ぶべきという『大日本史』の思想は水戸学として、やがて幕末に大きな影響を与えることとなる。
この秋は「幕末感」が加速する?
『桜田門外ノ変』が映画化された背景には、茨城県が水戸黄門と納豆だけの県ではないことを伝えたいという思いもあったようだ。この秋、映画が公開されれば、茨城県の見方が少しは変わってくることだろう。
くしくも、NHK大河ドラマは『龍馬伝』であり、日本そのものも閉塞感がまだまだ払拭できない状況にある。前述したようにドラマチックな『龍馬伝』に比べれば、『桜田門外ノ変』は地味に思えるかもしれない。だが、歴史の表舞台に現れることのなかった水戸浪士たちの思いを知れば、幕末の見方がより深いものになることは間違いない。幕末の時代のリアルさを描いた『桜田門外ノ変』は、今の時代にさまざまなメッセージをもたらしてくれることだろう。この作品が公開される秋には、日本の「幕末感」がより一層強く感じられるようになるかもしれない。