ドワンゴで働くということ

ニコニコ動画で新企画やサービスの開発を担当する中野真氏は、ドワンゴ黎明期から在籍する古株社員だ。同社の成長を描いた新書『ニコニコ動画が未来をつくる ドワンゴ物語』(佐々木俊尚 著/アスキー・メディアワークス)では、中野氏が川上量生 会長からゲーマー廃人要素を見込まれ、素人プログラマとして無謀な開発案件に送り込まれるエピソードが描かれている。あのころ"学校の放課後"のようだったドワンゴは、いまや東証一部上場企業。中野氏も企画屋に立場を変え、"一筋縄ではいかない経営陣"と向き合う日々を送る。一方で、開発現場に未練はある、という。そんな中野氏に、現場を離れたことの思いやニコニコ動画での経験について話を伺った。

中野真 ドワンゴ ニコニコ事業本部 第一企画開発部 サービス開発担当部長。1998年に入社

──いきなりですが、中野さんにとってドワンゴとはどういう会社なのでしょうか。

この言葉をそのまま捉えられると語弊を招くかもしれませんが、"お金に執着がない"という気がしていて。目先の利益という意味でのお金にあまり執着がない。まず先に"何かを作る"ことを追い求めているところがあって、その結果を出すと、「最終的にお金もついてくるよね」という考え方なのかな。だから、ニコニコ動画なんかも目先の利益を考えると、絶対に手を出すべきビジネスじゃないと思うんです。でも、そこに対して「やってみよう」と動いてしまう。もちろん社内でも人によって考えは違いますが、お金を儲けること以上に、世間をアッと言わせるような何かを自分たちの手で作るとか、一般論的に「あそこには絶対勝てない」と言われているサービスに勝つとか、そんな目的がそれぞれにあって、そのために動くのがドワンゴなのかな。

──そういう空気を作っているのは何なのでしょうか。

川上(会長)の影響が大きいと思います。あとは会社のサービスを見て惹かれて集まってきた人が作り出す空気というか。ただ、そういう意味では、川上がいるから、じゃないでしょうか。

──中野さんは川上会長をどんな人と考えていますか。

普通の人が考えていることの一歩、二歩先を行っている人。本人が認めるかどうかはさておき、常に裏付けされた何かがある。知識のパーツがたくさんあって、"それを組み合わせて何ができる"という発想が早い。本人は「自分はおもてに出ちゃいけない人間」と言うけど、あの人の経験や知識はおもしろいから、ニコニコ生放送をひとりでやればいいのですが。

──その川上さんから、入社当初に大きな仕事を割り当てられたんですよね。

当時の社内は、川上派と、「Bio_100%」(※1)のメンバーが母体の森(栄樹 副社長)派という2グループがあって、僕は"川上側の廃人ゲーマー的な人間"として入りました。百戦錬磨のBio_100%の人たちとくらべると、僕らなんてプログラムは知らないも同然。ホームページでも作るのかなと思っていたら、川上からはプログラムをやれと言われ、「3カ月以内にものにならなかったらクビね」って。なんとか簡単なものなら作れるようになったら、川上がセガのドリームキャストの仕事を請け負ってきたんです。何の根拠があってか、「セガラリー2」のサーバ一式を作る仕事を振られました。

※1 1990年代にパソコン通信などを通じて多くのPCゲームをリリースした開発集団。「ニコニコ動画」の基本システムを開発した戀塚昭彦氏もBio_100%メンバーのひとり。

──かなりプレッシャーだったのでは。

クライアントとサーバで担当を分けていたのですが、両方とも素人。仕事でプログラムを組んだ経験はゼロという人ばかりでした。ただ、ノリで動く人間ばかりだったので、難易度の高いゲームをクリアするみたいな感じもありましたね。現場の雰囲気は学校の休み時間とか放課後。デバッグだと言い切って「Age of Empire」をやったり。席の向かいには川上がいて、ネット越しに一緒にゲームをしてましたしね。ただ、会社がやばいらしいというのを感じ始めたあたりからテンパりながら……。今になってみると、プロ意識という意味では疑問を感じますけど。

──それでも仕事は達成されたわけですよね。このチームで達成できるという裏付けが川上さんの中にはあったのでしょうか。

正直わからないんですけど、この本を読んで当時の舞台裏を知った感じです(※2)。でも、総じて言えるのは、あれは運が良かった。当時について森は、「なんで中野たちのような人間が、成功というか、失敗しなかったのかがわからない」って言っています。ただ、社会人になっていきなり修羅場から入っているので、ちょっとやそっとじゃ動じなくなりましたね。おかげで締切り直前で怒濤の頑張りをする"夏休みの宿題状態"が数年続いて……。

※2 『ニコニコ動画が未来を作る ドワンゴ物語』によると、戦略性の高いゲームをやり込むゲーマーたちなら、ゲーム攻略のためのロジックが鍛えられている=プログラミングに向いている……という川上氏の考えがあったという。詳細は本著をお読みください!

──プログラマとして充実した日々を過ごしたわけですが、現在は開発現場を離れていますよね。未練はありませんか。

ありますね。いまだに自分で作りたいな、と。でも、2、3年前から、川上からは「自分で手を動かして自分で作ってるうちは、できることに限界がある」と言われていた。それはその通りで、自分でコード書いて、サーバの設定もして──となると、大規模なものは作れない。「自分で作りたいものを、人を使って作れるようになれ」って。

──そう考えたのはどういう時期だったのでしょうか。

当時(2005年)、「パケラジ」という携帯電話向けの動画ストリーミングサービスを日本で最初に作ったんです。僕はサーバプログラマとして参加したんですけど、正直なところ、このサービスはコケてしまった。お金につなげられなかったので。でも、会社としては成功とは言えないサービスでも、技術的にチャレンジするには十分な価値があった。この分野には未来があるから、もうちょっと突き詰めて、いいものにしていこうという空気があったんです。私としては、流されるままに流れていた感じでした。ただ、(所属していた)ゲーム事業の先行きが暗いよねとなってきたとき、何もせずに立ちゆかなくなるのは古株社員として悲しいなと考えて、川上には「どうにかしたいと思っている」と話しました。

──その頃に会社に対するアプローチが変わってきたわけですね。パケラジから「ニコニコ動画」へとつながる中で、開発現場を離れるきっかけがあったのですか。

ニコニコ動画は僕がプロトタイプを作ったあとに手を離れて、ユビキタスエンターテインメントの布留川(英一)さんと(研究開発部の)戀塚(昭彦)さんを経てリリースされました。そのあと、ニコニコ動画がヒットの片鱗を見せ始めたあたりで、"2、3人の開発者+川上"という体制から、本格的なプロジェクトとして人員を増強して取り組んでいくことになりました。そこで、開発側ではなく、「企画側の人間としてやらないか」というオファーを受けた。川上からは「大きなサービスを作りたいと思ったら、自分の手を動かさずに人を使わなきゃダメだ」と言われて、プロデューサー的な立ち振る舞いも求められていたので、いい機会かなと思ってコンバートに踏み切ったんです。すべてを川上が担当するのは疲れるから、身代わりとして引っ張られたのかもしれませんけど(笑)

──ニコニコ動画の企画を担当する中で、新たに吸収できたことはありますか。

川上から、ということになりますけど。たとえば、プロモーションの仕方。昔の開発者ブログは、川上がほとんど書いているのですが、けっこう挑発的な文章があるんです。なんでこんな表現を使うのかと疑問に思っていたけど、僕が書く堅い文章より、川上の書く一見挑発的な文章のほうが反響が大きいし、メディアにも取り上げられる。おかげでCMや広告を出さなくても、ネット上では常にメディアやユーザーの間で「ニコニコ動画」が話題になっていました。初期の頃はそれだけでプロモーションになってましたね。それと、炎上もひとつのプロモーションの機会ととらえるところがある。ユーザーに騒がれてしまったとき、普通の企業なら火消しにかかったり、マイナス方向に振れたまま終えることがあります。ニコニコ動画だと、懐の深さを見せるというか、それをネタにして別軸に振る企画に変えたりしてしまう。結果として批判的な声が好意的なものに変わっていたり。すべて計算尽くということはあとで理解したのですが、僕はそこまで緻密に考えてはやれないですね。どういう頭の構造になっているのかすごい疑問です。

──ニコニコ動画の企画は現在も川上会長との間で練っているのでしょうか。

いまは、川上・西村(博之)・夏野(剛)という3人を前に話す場が週に一度あるんです。そこで企画の進捗状況や新企画の報告をしています。僕が日常生活を送っていて、一番楽しいのも、一番イヤなのも、この会合です。だいたいケチョンケチョンにされるんで……。十分に詰めてツッコミようがないと思った企画でも、誰かもしくは全員からツッコミが来る。3人が3人ともまったく別のタイプの天才ですよね。夏野はビジネスに特化した天才だし、西村はユーザー心理を読むという点で天才的。企業とユーザーの関係はとても緊張感のあるものですが、そういう意味では、西村は川上よりも上かなと思います。考えすぎたり、思いこみのユーザー心理に対しては、必ず「違う」という指摘を受けますね。そんな中でも「ニコニコ生放送」はわりと叩かれなかった例でしょうか。

──ところで、ドワンゴ社内にはかつての放課後的なノリはあるのでしょうか。中野さんの入社当時のような「いきなり新人に……」ということは?

上場してしまったんで、東証一部上場企業として守らないといけないことがあって、"あの頃"のものは会社として少しずつ改善されてしまいました。ただ、本質的には他の会社とは違う部分が残っていると思います。最近では"あの頃"に戻そうという動きもあって、「無鉄砲でもいいから、思い切った発想をする新人に作らせる」というプロジェクトを進めています。1、2年目くらいの新人でチーム編成をして。たぶん、ここ2カ月ほどでニコニコ動画からリリースされるサービスの一部は彼らが作り上げたものになりますね。

──「無鉄砲でもいいから」というのはどういう意味でしょうか。

決まりきった型にはめてしまうと、そこから飛び出なくなってしまうというか……。着メロ事業(がメイン)の時代は"普通の会社"としてドワンゴに入社してくる感じで、集まる人が"普通の人だけ"だと、面白い発想は出てこないんじゃないかと。それで、どこか極端に偏っている人も入れたらいいんじゃないか、ということでやったのが、「2ちゃんねる募集」(※3)だったんです。変人をとるのではなく、人間として完成されていない、普通に面接を受けると落ちちゃう──だけど、何かに秀でている人をとったらいいんじゃないか、と。何回か募集を告知しまして、そこで採用した人の中には、ニコニコ動画の開発の主力になっている者もいます。こんどは「ニコニコ生放送で新卒採用やろうよ」(※4)と言っています(笑)。一芸入社だ、って。

※3 ドワンゴは、2007年2月に掲示板「2ちゃんねる」上に"学歴重視"をうたう技術者募集案内を掲出した。条件には「中卒または高卒の方のみ」「大学在籍者の場合は卒業の意志のない方」とあった。
※4 その後、本当に実行に移している

──それはノリというのではなく?

真剣に考えています。実際にそういう人が戦力になっていたりするので、学歴がどうとかにはこだわっていません。「必ずしもそうじゃない人でも結果は出せる」というのは企業理念としてあると思うんです。

──立場を変えることを求められ、その後はニコニコ動画の運営を企画面で支えてきたわけですが、今後新たにドワンゴでやっていきたいことはありますか。

ニコニコ動画がまだ完成していないにも関わらず……ではありますが、ニコニコ動画じゃないものを作りたいというのはありますね。今は新しいことをやるにも「ニコニコ動画」というブランドに影響されてしまうところがあります。でも、動画に依存しなくてもサービスとして成功することを示さないと、動画でない別のものが主流の時代が来たとき、切り替えられなくなるかもしれない。そういう意味ではもっと多角的に展開できるような仕組みを作りたいですね。僕の中では、ニコニコ動画自体は川上が成功させたという気持ちが強い。今は少しずつ考えて、「どっかのタイミングでやるぞ」というのを狙おうかなと。でも、まずはニコニコ動画を黒字化しておかないといけないですね。

──ニコニコ動画から離れたサービスを考えているわけですね。

うちの会社って、3、4年ごとにサービスの主体がガラッと変わってきてるんですよ。最初はゲームでしたが、次は着メロ事業、そしてニコニコ動画。その次はなんだろう、というのは今から楽しみだったりします。そして、できることなら"その次"に絡んでいきたい。生み出す側でありたい。「またこんなことやってるのか」と言われたいんです。これまでの経緯もあるので、「普通だな」と言われるのが屈辱的。「バカなことをやってるな」と言われるのが最大の賛辞なんじゃないかと思っています。それは他社がやってないことをできている、という証明でもあるので。