「セックス映画として観られてもかまわない」

――確かにツールや描かれている事象は、極めて風俗的で現代的ですが、相手を「必要な存在」と認識してからは、クラシカルな部分が際立ってきますね。

蜷川「携帯や、メールを使う方が他者の本質に到達しないで済むからね。でも現実の衝動的な殺人事件なんかを見ると、ある種の匿名下ではやりきれなくなって、どうしても、もっと固有名詞化された関係を人が欲しているんだと思うんです。"誰かに記憶されたい"とか"確かな誰かが欲しい"とかいう想いは、隠しているだけで、確かにあると僕には思えるわけです。そういう問題を『蛇にピアス』は抱えていると思っています。固有名詞を抜きにして、"確かな想い"には到達できないんだと……。喪失して初めて、そのことにだんだん突き進んでいくと……。渋谷の交差点で主人公のルイが立ち止まったときに、初めて失った物の大きさに気づいていくっていう感じかな、と思っているんですけど」

――蜷川監督自身としては、その感覚は世代問わず普遍的なものと認識していますか? この作品のそんな普遍性が理解されず、観客に表層的な解釈をされる可能性もあると思いますが……。

蜷川「そうだよね。それも半分は望むところで、風俗的なセックス映画として観てほしいって気持ちもあるんだよ。そういう人は、そういう人で映画を観てくれるから(笑)。それはそれでいいんだけど、もう少し普遍的な神話の構図を読み解いてくれる人がいたらありがたいですね」

――各キャストに関してですが、吉高由里子さん、高良健吾さん、ARATAさんの3人は、蜷川監督から見ていかがでした?

蜷川「面白かったですよ。みんな演出するのは初めてだから不安がないっていったら嘘になるけど。今回のキャストはみんな直感で選んだんです。精神的に奥のほうでバイブレーション起こしてるような人たちがいいと思って……。吉高さんに会ったとき、あいつはもうぐにゃぐにゃ軟体動物みたいだった(笑)。『変な子だな』と思ったけど、『この子がしっかりとやったら成功するかも』とも思ったんです。高良くんは始めから『彼はいいな』と思いました。彼だけは2回会いました。1回目はもの凄く緊張してたんで、『この緊張が解けると、どういう素顔があるのかな?』って気になったんです。で、少しずつ表情が解け始めて、色々な良い揺らめきが見えたんです。それからARATAくんは、最初から頭剃って現れたから、もう『これは、こいつで決まりだな』と思った(笑)。それからね、みんな『裸になることは全然構わない。必要ならば、本番だって構わないんだ』って言い方してくれましたから。そういう意味では自由に演出させてもらいました。逆にいうと、演出の幅を彼らがくれた。『ここまでは自由にやっていいんですよ。僕らは協力しますよ』って感じがあったので仕事は楽しかったですね。繊細に生意気でナイーブで面白かったよ。3人とも三者三様で」

3人の若い役者が『蛇にピアス』の世界を作り上げた

――この作品の特徴として「父親不在」というか、普通の映画や舞台であるような大人(ベテラン俳優)が物語を支えるという構図が存在しません。本当に若い役者の存在で成り立っていてます。実際、演出されていて、どうでしたか?

蜷川「演出も父親不在になろうと……。言ってみれば父権で押さえ込むという演出をしたくなかったんです。彼らが伸びやかに自分たちが思ったことをやっていいんだという風になればいいなと思ったんです。演技に関して、あまりお説教じみた概念説明はしなかった。条件だけ渡して、動きや表現の可能性を演じてもらいながら切り取ったという感じですね」

――その自由な演出方法は成功しましたか?

蜷川「彼らも緊張したと思いますよ。ただ、全体的なミーティングはやりたくなかったんです。彼らも、自分たちで相談しながらやってました。高良君なんか『男の人と寝る経験ないとまずいかな』とか色々悩みながらやってましたし。みんなで相談して、そのときに思いついたことをリハーサルでやってみて、それを拡大して演出していくというやり方だったから、彼らは自分たちが悩みながらも主導権を取り演技できたという気分だろうと思います」

――普段、蜷川監督は舞台の演出をされていますが、今回のように、自由に若い役者に主導権を握らせてっていうのは、蜷川監督にとっても、珍しいことなのではないですか?

蜷川「そうですね。これまでは、誰かしら一緒に仕事した経験があるか、ベテランか誰かが劇的には支えているということが多いんですけど、今回はなかったですから。まあ、ARATAくんが彼らの中では精神的なバックボーンになったんだろうと思います」