――一番上のお兄さんの竜夫さんとは、おいくつ違いですか。

「8歳才違いです」

――先ほど、貧しかったというお話もありましたけれども、竜夫さんが地元の京都で、早くに挿し絵画家として働き始められたわけですね。

「その当時は、もう親はいなかったですし、兄貴がすばらしい絵を描いたりするんで、その背中を見て育ったというか。だから、ほかの職業なんて全く考えてないですよ。絵を描いて、とにかく自分が食べるお金ぐらいは人に迷惑かけないように。言ってみれば兄弟でしょ。最低でも一人前になって、自分で食うぐらいのことはね。そういう甲斐性、『自分でつけないけない』ということで、一番得意だったのは絵でしたから。今の人はどうか知らないけど、その当時はもう、いかに食べていけるか、という時代でしたからね」

――まず、竜夫さんが、上京されたんですね。

「東京で挿し絵をやっていた方が京都に戻ってこられて、『君の画力は、京都ではもったいない。上京すればもっと飛躍できる』と言われたんです。それで単身兄貴が上京したんです。『1年後には、必ずお前たちを呼んでやる』と兄貴は約束してくれました。そして、私と次男は約束どおりに、1年後に呼んでもらって東京へ来たんです」

――次男の健二さんとご自身、豊治さんとお二人で上京されて、最初は長男の竜夫さんを手伝ってらっしゃったんですか。

「それは、やっぱり、兄貴に世話になることよりも、何かお手伝いしなきゃならないということでアシスタントをね。で、そうこうしているうちに、1、2年目かな、兄貴の原稿を取りに来られる編集の方に僕の絵を見せたりしているうちに見出され……。だから、売り込みにはそんなに苦労はしてないんですよ(笑)」

――じゃ、漫画家としてデビューされたと。

「兄貴は挿し絵画家ですけども、僕は手塚治虫さんだとか、当時は(福井英一氏の)『イガグリくん』だとかあったんですよ。だから、絵物語を見るというとき、見るのはまず一番に兄貴の挿し絵を見るんですけど、その次に何を見るかといったら、物語もあるんですけど、やはり漫画を見ちゃうんですよ(笑)」

――あ、同じ雑誌に掲載されているものでも、漫画のほうに……。

「そうですよ。だから、これからはやっぱりね、同じやるなら……(笑)。で、まだ若かったから、転向もいくらでもききますから。『じゃあ、漫画家を目指そう』と」